★猫丸しりいず第187回
 
◎ベルク:歌劇「ヴォツェック」
 
 カール・ベーム指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
 ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)他
(独DG 4357052 ※廃盤)
 
◎前川陽子/スーパーベスト
 (日本コロムビア COCX33277

 
前回は「20世紀最高の迷歌手」をとり上げたが、それでは正真正銘の「20世紀最高の名歌手」は誰か?と問われたら、私が「この人!」と叫びたいのがナット・キング・コールと前川陽子。ご両人ともクラシック音楽の歌手じゃ無いのは少々複雑な心境だが・・・。
 
大御所ナット・キング・コールに関しては、今更細かいご説明は不要とは思うが、「前川陽子って誰?」という方は結構多いのでは」ないだろうか。実は前川さんは私と同じく1960~70年代に子供時代を送った方で、テレビから流れる彼女の歌を聴いた事が無い方は少ないのでは・・と思われる人。
彼女は 大杉久美子さんや堀江美都子さんと共に「昭和3大アニメソング女王」と呼びたい大歌手である。
 
「ひょっこりひょうたん島」「リボンの騎士」「魔法のマンボ(魔法使いサリー)」「キューティーハニー」「忍者ハットリくん」「魔女っ子メグちゃん」・・。これらは前川さんの歌った曲のホンの一部であるが、彼女の歌をまとめて聴くととにかくその並外れた歌唱力に感服してしまう。音程、リズムの恐るべき正確さはモチロンの事、「表情づけ」の絶妙さはまさに「神技」の領域。「歌は歌手によって命を吹き込まれる」事をこれほど実感させてくれる歌手は中々居ない。例えば「キューティハニー」の最後の「イヤよ イヤよ
イヤよ みつめちゃイヤー ハニー フラッシュ!」という部分。前川さんは4回の「イヤ」を全て歌い分けているばかりか、続く「ハニー」で正義のヒロインらしい決然とした凛々しさを感じさせた直後の「フラッシュ!」では再び「美女降臨」的なコケットリーを漂わせる。時間にしてわずか8秒!の間にこれだけの事をやってのける人を名歌手と呼ばずして何と呼ぶのか。
 
前川さんをはじめ、大杉さん、堀江さんと言ったウルトラ級の名歌手たちの歌う数々の名アニメソングを聴けた、当時の子供たち(私もだが)はこの上無い幸せ者であったと思う。
 
ではクラシック界で20世紀最高の名歌手は・・と問われたら、いろんな人が頭に浮かぶ中で矢張り昨年亡くなったフィッシャー=ディースカウを外す事は出来ない。この人も前川さん同様「正確さ」「巧みな表情付け」という点で人後に落ちない存在である。古典から新作に至る驚異的に広いレパートリーで安定して力量を発揮した点も凄い。
私が彼の録音の中でたった一つ挙げろ、と言われたら迷わず選ぶのが1965年録音の「ヴォツェック」。とにかく完璧の一言。この名作にはその後も多くの優れた録音、映像が出てはいるが、シュトルツェ演ずる大尉(面白すぎる)、リアー演ずるマリー等々のキャストの充実ぶりや、ベームの人間味溢れた指揮は代えがたい魅力を放っていて、まさに「不滅の名演」と言える存在。
 
ただフィッシャー=ディースカウの歌に関しては、無学でお人よしの一兵卒に過ぎないヴォツェックにしては、余りに理知的で完璧すぎる・・という批判もあるようだ。そう言えば、彼が「魔笛」のパパゲーノを演じた時(これまたベーム指揮)、その歌を「大学出のパパゲーノ」と揶揄した文を読んで爆笑してしまった事があったが、まあ確かにそういう面もある事は否定はしない。でも「下手糞!」と非難されるならまだしも、「ウマすぎる!」と非難されるのは実に理不尽な話ではある。この事も彼の比類ない完璧さを裏付ける材料の一つなのかも知れないけれど。
 
驚いたのは、一昔前は「ヴォツェックと言えばまずこの録音」という位置付けだったベーム盤でさえ、現在廃盤という事実。文化遺産と言うべき名盤たちがずっと入手可能な状態を保つ事は、我々中古ショップの大きな使命となっている事を再認識させられる今日この頃。