★猫丸しりいず第174回
 
◎ブラームス:ドイツ・レクイエム
 
ベルナルト・ハイティンク指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 他
(国内PHILIPS PHCP9049 廃盤)
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今年も「お盆」が近づいてきた。
 
50年近く人間をやっていると、「愛する者との別離」を経験する頻度がどんどん高まっていくのは自然の摂理。「別離」の直後の、あの何ともコトバで形容し難い「喪失感」は、何度経験してもツライものだ。まあ、その「喪失感」は時間の経過によって徐々に癒され、
またもとの「日常」に戻っていくのではあるが。
 
そこで「ドイツ・レクイエム」である。
 
実は私は若い頃この曲が苦手で、何度聴いてもその良さがサッパリわからなかった。ところが、40歳過ぎて「別離」の経験が急激に増えるにつれ、この曲がどんどん心に沁みてくるようになった。今では「別離」の後の喪失感を少しでも癒したいと思った時、最初にこの曲を聴くようになってしまった程だ。同じ曲でも、聴き手の人生経験の積み重ねによって「聴こえ方」が全然変わってしまう事があるのは音楽の奥深さを示すようで面白い。
 
それでは、なぜ自分は今頃になってこの曲に目覚めたのだろうか。ご紹介のハイティンク盤のライナーノーツで門馬直美さんがこんな事を書かれている。この作品は、通常のレクイエムのように「死者の霊を慰める」というより、むしろ「死に関する悲しみの音楽という方向をとっており」、死者では無く「現世の人に目を向け、その人たちに慰めを与えようとしている」。なるほどね~と思った。「死者のため」でなく「愛する者を喪って悲しむ残された現世の人たち」への眼差しが感じられる作品。その部分に自分も大きく惹かれ、共感したのだろうと思う。
 
通常のラテン語の典礼では無く、ルターによる独語訳から歌詞を自ら選び、再構成したという曲のつくりといい、起伏のなだらかなシブい曲の雰囲気といい、まさに「こだわりおやじ」ブラームスならではの熟成味すら感じるこの名曲。この曲を私は昔「ブラームス晩年の傑作」なのかと大きなカン違いをしていたのだが、実際には1869年に初演されており、その時まだブラームスは30歳代半ば。まだ「交響曲第1番」も出来ていない頃の作品であり、「晩年の熟成作」どころか彼にとっては「出世作」に当たる曲である訳だ。これは自分には本当に意外であった。
 
この曲の名盤は山ほどあり、その中であえて入手困難になってしまっているハイティンク盤をご紹介するのは多少気が引けるが、愛聴盤ゆえご容赦願いたい。「巨匠」としてのハイティンクしかご存じない若い世代の方には信じられない事かもしれないが、私がクラシックを聴き始めた1970年代半ばのハイティンクは「ボンクラ若造指揮者」的なヒドイ扱いを受けていた。しかし、1978年録音のブルックナーの交響曲第7番が大絶賛を受けたあたりから徐々に彼は正当な評価を得られるようになった。この「ドイツ・レクイエム」は1980年の録音で、まさに彼への注目度、評価が鰻上りになっていた時代のもの。奇をてらわない堅実な演奏ながら充実感溢れる名演。また、オケと合唱の素晴らしさには、ウィーンの演奏家たちの底力を痛感させる。
 
ブラームスがこの曲を書いたキッカケは「シューマンの死」であるとか、「母親の死」であるとか諸説紛々なのだが、いずれにせよ彼が「愛する者を喪った喪失感」を存分に味わった上で、この曲を書き上げた事は確かなようだ。ツライ人生経験をくぐり抜けて、そんな彼の「思い」への共感を出来るようになるとより一層この名曲への愛着が湧くのであろう。誠に「音楽は人生と共にあり」。