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《バビロン川のほとりにて》  バッハ=フェインベルク 
(MARTIN ROSCOE :  BACH PIANO TRANSCRIPTIONS 4 THE FEINBRG TRANSCRIPTIONS CDA67468に収録)

 このコラール前奏曲に用いられているコラールは「バビロン捕囚」について歌った詩篇137を歌詞としている。詩篇を意味するpsalmiの原義が「心をうごかすもの」であるように、この詩篇にも失われた祖国への想いや征服者に対する憎しみ、さらには呪いといった強い情念がこもっている。 バビロンに囚われた人々の祖国への思いは、失われたエデンの園に対する人類の古い郷愁とも重なる。信仰者にとって、歴史とは螺旋的なものであり、時間は直線的に進行せず、照応しあい、複雑な意味を形成するのだ。 
 
 このような激しい宗教的感情を発露した内容とは対象的に《バビロン川のほとりにて》の穏やかさはまるでパストラル(牧歌)を思わせる。 パストラルとは、本来失われたエデンの園に対する郷愁、その記憶を呼び覚ます音楽を意味したという。このコラールの歌詞が嘆きの歌であるのに、音楽が子守唄のような安らかな旋律を持っているのはこのためだ。 
  楽園での生活を描くパストラルは、その精神の根底に現実に対する失望や倦怠というアンチテーゼを内包している。
  
永遠に失われたものに対する郷愁と記憶、それを奪ったものに対する強い怨念。 
  
 フェインベルクはその原曲の感情を編曲によって増幅する。バッハが書いた激しい憎しみが沸きあがるような極めて不協和な響きを、フェインベルクは引き裂かれるような和声配置やデュナーミクで強調している。終結部では、高声部、中声部、低声部が乖離し、それぞれが広漠とした響きの中で繊細に息づく瞬間がある。コラールで歌われる故国への郷愁と征服者に対する激しい憎しみは、ひどく傷ついた諦念のような感情に昇華されてゆく。 (文責:大村)
  

「詩篇137」 

バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、私たちは泣いた
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた
わたしたちを捕囚した民が
歌を歌えと言うから
私たちを嘲う民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」
と言うから、
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異郷の地で 
 
エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら
主よ、覚えていてください
エドムの子らを
エルサレムのあの日を
彼らがこう言ったのを
「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」
娘バビロンよ、破壊者よ
いかに幸いなことか
お前がわたしたちにした仕打ちを
お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は 
 
(新共同訳)