猫丸しりいずのカテゴリー記事一覧

★猫丸しりいず第188回
 
◎サリエリ:序曲集(「エラクリトとデモクリト」「ファルマクサの皇帝」「アルミーダ」他
 
 ミヒャエル・ディートリッヒ指揮 スロヴァキア放送交響楽団
(NAXOS 8554838)
 
 年末と言えば「第9」と「忠臣蔵」。
 
私が子供の頃からヒドイなあと感じ続けているのが、「忠臣蔵」における吉良上野介の扱われ方である。古今東西のオハナシの中でも、これ以上無い位の「わかりやすい」悪役スターであるのだが、何だかとても理不尽な感じが拭えない。
 
結果的に浅野家の「敵(かたき)」となってしまった吉良だが、別に彼は自ら内匠頭に危害を加えたわけでも殺害したわけでも無い。それどころか吉良は内匠頭に一方的に斬りつけられた上に反撃もしていない。内匠頭が吉良の「元祖パワハラ?」に相当にプライドを傷つけられたのは確かだろうが、彼が切腹せざるを得なかったのは「殿中での刃傷沙汰」という大不祥事を起こした結果であり「自業自得」と言わざるを得ないと不肖猫丸は思う。浅野内匠頭と関わりになる事さえ無ければ、多分穏やかな余生を過ごし、名君として讃えられたかも知れない吉良上野介。事実、地元の愛知県吉良町(現在は西尾市の一部)では上野介は名君として親しまれているのだそうだ。全く不運と言うか、理不尽としか言いようが無いと思う。
 
しかし、「忠臣蔵」というオハナシが「悪役スター上野介」がいなければ成立し得ないのもまた事実。でなければ内匠頭はただの「感情をコントロール出来なかったばかりに忠臣たちを路頭に迷わせたバカ殿様」で終わってしまう。それにしても可哀想な吉良上野介・・・。
めげるな! 上野介! 俺はアンタの味方だぜ!!!
 
そして。クラシック音楽界の上野介級大悪役と言えば、これはもうサリエリ大先生(1750~1825)でキマリ。彼もモーツァルトという異常天才と関わる事さえなければ、現在のような「悪名」を轟かす事も無く、当時のウィーン音楽界の重鎮、そしてベートーヴェンやシューベルトの師として、地味ながら安定した名声を保っていただろうに・・・。モーツァルトと対立し、しかもそのモーツァルトが謎の急死を遂げた事から生前から彼を謀殺したのではと根拠のない噂を流され、更に没後も古くはプーシキンの劇(と、それを題材にしたリムスキー=コルサコフのオペラ)、最近では映画「アマデウス」等で「わかりやすい」悪役に仕立て上げられ・・と、この辺の流れは「忠臣蔵」における吉良上野介と瓜二つである。
 
ここまで一方的に悪役にされてしまうと、上野介のケース同様、私としてはどうしてもサリエリに「助太刀」したくなる。大体、ただの凡才であれば、長年に亘り重鎮としてウィーンに君臨する事など出来ない筈。そう思って、彼の遺した数多くのオペラの序曲を聴いてみる。さてその判定は・・・・。
 
彼の作品は様式美に満ち、折り目正しく、耳に非常に心地良い。ただ、それ以上でもそれ以下でも無い、と言うのが正直な印象。口当たりは良いが、あまりに上品で淡泊な味付けの料理という感じで「薬味」が欲しくなってしまうのである。モーツァルトのような破格の天才と比較するのはそもそも無理があると思うが、例えばハイドンのようなユーモア精神や器用さ、ベートーヴェンのようなあくなき開拓精神といった、大作曲家を大作曲家たらしめている「薬味」の部分が彼の作品には欠けている、という事は残念ながら認めざるを得ない。
 
しかし、こんな事はサリエリの時代から200年以上に亘る音楽史の流れを俯瞰し得る21世紀に生きる我々だからこそ言える事であって、突出したインパクトは無くとも安定したレベルを保つ「アベレージヒッター」としてのサリエリの能力は、もっと正当に評価されるべき、と私は考えている。サリエリの作品の録音は最近徐々に増えつつあるが、演奏、選曲共に及第点で価格も手頃であり、サリエリの作品を知るサンプルとして適当と思われるのがご紹介のNAXOS盤。興味のある方はご一聴頂きたい。貴方の判定は如何か?? 
★猫丸しりいず第187回
 
◎ベルク:歌劇「ヴォツェック」
 
 カール・ベーム指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
 ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)他
(独DG 4357052 ※廃盤)
 
◎前川陽子/スーパーベスト
 (日本コロムビア COCX33277

 
前回は「20世紀最高の迷歌手」をとり上げたが、それでは正真正銘の「20世紀最高の名歌手」は誰か?と問われたら、私が「この人!」と叫びたいのがナット・キング・コールと前川陽子。ご両人ともクラシック音楽の歌手じゃ無いのは少々複雑な心境だが・・・。
 
大御所ナット・キング・コールに関しては、今更細かいご説明は不要とは思うが、「前川陽子って誰?」という方は結構多いのでは」ないだろうか。実は前川さんは私と同じく1960~70年代に子供時代を送った方で、テレビから流れる彼女の歌を聴いた事が無い方は少ないのでは・・と思われる人。
彼女は 大杉久美子さんや堀江美都子さんと共に「昭和3大アニメソング女王」と呼びたい大歌手である。
 
「ひょっこりひょうたん島」「リボンの騎士」「魔法のマンボ(魔法使いサリー)」「キューティーハニー」「忍者ハットリくん」「魔女っ子メグちゃん」・・。これらは前川さんの歌った曲のホンの一部であるが、彼女の歌をまとめて聴くととにかくその並外れた歌唱力に感服してしまう。音程、リズムの恐るべき正確さはモチロンの事、「表情づけ」の絶妙さはまさに「神技」の領域。「歌は歌手によって命を吹き込まれる」事をこれほど実感させてくれる歌手は中々居ない。例えば「キューティハニー」の最後の「イヤよ イヤよ
イヤよ みつめちゃイヤー ハニー フラッシュ!」という部分。前川さんは4回の「イヤ」を全て歌い分けているばかりか、続く「ハニー」で正義のヒロインらしい決然とした凛々しさを感じさせた直後の「フラッシュ!」では再び「美女降臨」的なコケットリーを漂わせる。時間にしてわずか8秒!の間にこれだけの事をやってのける人を名歌手と呼ばずして何と呼ぶのか。
 
前川さんをはじめ、大杉さん、堀江さんと言ったウルトラ級の名歌手たちの歌う数々の名アニメソングを聴けた、当時の子供たち(私もだが)はこの上無い幸せ者であったと思う。
 
ではクラシック界で20世紀最高の名歌手は・・と問われたら、いろんな人が頭に浮かぶ中で矢張り昨年亡くなったフィッシャー=ディースカウを外す事は出来ない。この人も前川さん同様「正確さ」「巧みな表情付け」という点で人後に落ちない存在である。古典から新作に至る驚異的に広いレパートリーで安定して力量を発揮した点も凄い。
私が彼の録音の中でたった一つ挙げろ、と言われたら迷わず選ぶのが1965年録音の「ヴォツェック」。とにかく完璧の一言。この名作にはその後も多くの優れた録音、映像が出てはいるが、シュトルツェ演ずる大尉(面白すぎる)、リアー演ずるマリー等々のキャストの充実ぶりや、ベームの人間味溢れた指揮は代えがたい魅力を放っていて、まさに「不滅の名演」と言える存在。
 
ただフィッシャー=ディースカウの歌に関しては、無学でお人よしの一兵卒に過ぎないヴォツェックにしては、余りに理知的で完璧すぎる・・という批判もあるようだ。そう言えば、彼が「魔笛」のパパゲーノを演じた時(これまたベーム指揮)、その歌を「大学出のパパゲーノ」と揶揄した文を読んで爆笑してしまった事があったが、まあ確かにそういう面もある事は否定はしない。でも「下手糞!」と非難されるならまだしも、「ウマすぎる!」と非難されるのは実に理不尽な話ではある。この事も彼の比類ない完璧さを裏付ける材料の一つなのかも知れないけれど。
 
驚いたのは、一昔前は「ヴォツェックと言えばまずこの録音」という位置付けだったベーム盤でさえ、現在廃盤という事実。文化遺産と言うべき名盤たちがずっと入手可能な状態を保つ事は、我々中古ショップの大きな使命となっている事を再認識させられる今日この頃。
 
★猫丸しりいず第186回
 
◎モーツァルト:「魔笛」~夜の女王のアリア
 ドリーブ:「ラクメ」~鐘の歌  リャードフ:音楽玉手箱  他
 
フローレンス・フォスター・ジェンキンス(S) コスメ・マックムーン(P)
 
(海外SONYCLASSICAL 88883766002 『人間の声の栄光????』)
 
一昔前までは、有名人でもない一個人が自らの「文章」や「演奏」を世の中に広める事には非常に高いハードルが存在した。しかし、インターネットの普及は全てを変えた。
 
インターネットという媒体が無かったら、例えば私のようなプロのライターでも評論家の大先生でもない、どこの「猫の骨」かもわからないような男が、こんな形で駄文を世間様に向けて発信するなどという事は簡単には出来ないだろう。同様に、今や巨匠も素人も関係なく「演奏」を全世界に向けて「発表」出来るようになったのは、凄いと言うか、オソロシイ事でもある。
 
そんな手段も無かった70年も前に、ド素人にもかかわらず口コミで大人気を集め、その「迷唱」が半世紀以上経った今でも聴き続けられている・・という「20世紀最高の迷歌手」フローレンス・フォスター・ジェンキンス女史(1868~1944)が今回はご登場。
 
ジェンキンスさんは大富豪の奥様でアマチュアの声楽家だったが、彼女は音程、テンポ、リズムの3拍子揃った「三冠王的大音痴」。能力には欠けていても財力は並外れていたジェンキンス女史。各地で勝手に(笑)リサイタルを開催し、そのズッコケぶりが大評判を呼んでファンクラブが出来る程の人気となり、遂には1944年にはカーネギー・ホールでリサイタルを開いて(しかも満員御礼)、栄光?の頂点で亡くなってしまう・・・という凄すぎるオバチャンである。彼女が遺した「栄光のアルバム」が長年に亘り「ホフナング音楽祭」と双璧のクラシック爆笑盤として君臨している「人間の声の栄光(????)」。ちなみに原タイトルは「The Glory(????) of the Human Voice」で、「?」はキチンとタイトルの一部となっているのである。
 
「夜の女王」「鐘の歌」「こうもりのアデーレのアリア」等、よりによって難曲ばかり並んでいるところに彼女の大いなる「自信」が窺えるが、聴いてみるとまさに抱腹絶倒の惨状(笑)である。「夜の女王」に関しては、少なくともこの曲を歌っているという事は聴けばわかるが、「鐘の歌」は最早原型をとどめない程に崩壊しまくっており、マジメに聴こうと思っても、どうしても吹き出してしまう天下の迷唱となっている。それにしても凄いのが、彼女の専属ピアニストだったというマックムーン氏の名伴奏ぶり。あらゆる面で崩壊しているジェンキンス女史の歌唱にひるむ事無く実に「息の合った」伴奏を付けているのはお見事の一言。ジェンキンスさん、良い伴奏者に恵まれたね。
 
それにしても謎なのは、彼女は自身の歌唱の「実態」をキチンと自覚していたのか?という点。実態を全く自覚していない「裸の王様」ならぬ「裸の女王様」だったのだとしたら、それも凄いとは思う。しかし、仮に彼女が自身の歌唱力の実態を自覚した上で、「確信犯的ジョーク」としてリサイタルをやっていたのだとしたら・・・・。これは凄すぎる。そうだとしたら、彼女は「人生を賭けたジョーク」を貫いた結果カーネギー・ホールまで到達し、没後70年の現在まで朽ちぬ名声?を維持している訳であるから。いずれの説にも証拠は無いので、真相は闇の中ではあるが・・・。
 
この盤を聴くと、笑いながらも「ああ、このオバチャン、本当に歌う事が好きなんだな」という気持ちがジワジワ湧いてきて、何だか微笑ましい気分になってくる。それがこの迷盤が変わらぬ人気を保ち続けている理由の一つではないだろうか。ジェンキンスさん。貴女はヤッパリ偉大です!!!!
★猫丸しりいず第185回
 
◎プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」
 
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ローマ歌劇場管弦楽団&合唱団
 
スコット(蝶々さん)ベルコンツィ(ピンカートン)ディ・スタジオ(スズキ)パネライ(シャープレス)他
 
(国内EMI TOCE9135~6/廃盤)
 
その後如何お過ごしですか? ピンカートンさん。
 
「その後」がどうも気になるお話、というのがあるが、私にとって「蝶々夫人」はその一つだ。自らの軽率な行動で蝶々さんを自刃に追いやったピンカートンは、その後ケイト夫人や子供と幸せに暮らしていけたのだろうか?
 
「私の事は気にせず幸せになって」と蝶々さんに言われたケイト夫人は、恐らく意気に感じて蝶々さんから預かった子供を立派に育てた事だろう。ただ、ピンカートンはどうだか・・・。その後もチャランポランな事ばかりやってなければ良いのだが・・・
 
大分前、当「猫丸」で「オペラ界ダメおやじ大賞」を「サロメ」のヘロデ王に進呈したい・・と申し上げた事があったが(詳しくはコチラを・・http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/895/)、「オペラ界ダメ男大賞」はもう文句無しにピンカートンであろう。第2位「カルメン」のドン・ホセに10ゲーム以上の大差を付け、プレーオフ無しで即決定という感じである。何しろこの男、領事シャープレスの再三の忠告にも耳を貸さずに蝶々さんの心に深い傷を負わせたばかりか、その事に気付いても狼狽するばかりで、自身で蝶々さんに謝罪する事も出来ずに逃げてしまう・・・というとんでもない奴なのだから。その「生き方」への姿勢に全く「ブレ」を感じさせない凛とした蝶々さんとの対比があまりに極端なため、尚更彼の「ダメ男」加減が目についてしまう。
 
しかし。「立派な男」でも何でもない凡人の私は、このピンカートンという男がどこか憎めない。大体「男」という生物は、普段はエラそうな事ばかり言っていながら、いざという時や想定外の緊急事態に直面するとすぐ腰砕けになって、ただの「パニックおやじ」と化してしまうケースが多い(ヘロデ王はその典型キャラだ)。むしろ、厳しい局面で、驚嘆するような肝っ玉の座った行動を女性が見せる・・という事は実社会でも度々目にする(あのパキスタンの少女、マララ・ユスフザイさんが直近の凄い実例。しかも彼女はまだ16歳である)。そういう意味では、ピンカートンは典型的に「男らしい」キャラとも言えるのでは。加えて、「反省してもすぐに忘れて同じ事を繰り返す」のも、男というしょうもない生物の特色。その点でもピンカートンという男には危険信号点滅である。一時は呵責の念に打ちひしがれても、すぐにその痛みを忘れケイトさんに迷惑ばかりかけているのでは・・・。心配で仕方が無い。オ~イ、ピンカートン。今度こそ立派な男になって、ケイトさんや子供を幸せにするんだ。しっかりやれよ! エッ?「人に説教する前に、自分の事を心配しろ」だって?痛い所を突かれたな・・・・。
 
さて「蝶々夫人」の名演として忘れがたいのが、バルビローリが1966年に録音した盤。情感溢れる指揮や、主役の2人の素晴らしさ(特にベルゴンツィの美声!)もモチロンの事、脇役陣の充実ぶりが実に良い。「蝶々夫人」は、主役の2人が良くても、シャープレス、スズキ、ゴロー等の脇役がヘナチョコだと何とも展開に締まりが無くなってしまうのだが、この盤はその点が万全なのだ。中でも名脇役スターと言いたい、私が贔屓にしているピエロ・デ・パルマ演ずるゴローが最高で、「待ってました、パルマ選手!」と叫びたい位である。
ただ、この名盤も今や安定供給されているとは言えない状態。前回とりあげた「ベーレントのアランフェス」同様、「自然消滅」させるにはあまりに惜しい名演だ。
★猫丸しりいず第184回
 
◎ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
◎カステルヌオーヴォ=テデスコ:ギター協奏曲第1番 
ジークフリート・ベーレント(G)
 
ラインハルト・ペータース指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(豪DG/ELOQUENCE 457306-2)

 
前々回シェイナの「スラヴ舞曲」をとりあげた際、「本場ものには外様には敵わない世界がある」と言った舌の根も乾かぬうちに矛盾するような事を言ってしまうのだが、「本場もの」では無いのにとてつもない名演が発生してしまう・・・事があるのも音楽の面白いところだ。
 
高校生の時、「アランフェス協奏曲」のレコードを買おうと思い立った時の事。当時の貧弱な可処分所得では、おいそれと2,500円以上もするレギュラー盤に手を出す事が出来ず、必然的に廉価盤からチョイスする事となった。レコード屋で色々と品物を漁っていたら、当時グラモフォンの廉価盤で出ていたドイツのギタリスト、ベーレントの盤が目についた。当時からヲタク&穴狙いの症状がハッキリ出ていた私は、「ソリストもオケもドイツで固めたアランフェスって一体・・・」という妙な興味が湧いてきて、その盤を衝動買いしてしまった(金1,300円也)。まあ魔が差した(笑)という事か。
 
ところが。この盤を自宅で聴いてブッ飛んだ。冒頭の印象的なギター・ソロ。これがアッと驚く快速テンポ。フラメンコか!と叫びたくなった次の瞬間、オーケストラが奏でる最初のテーマ。これが鮮烈そのもの! 獲れたての鮮魚がピーンと飛び跳ねるようなイキの良さ! 全曲を20分弱という速さでスッ飛ばすこの演奏、驚くべき名演奏だったのである。
 
快速にも関わらず寸分狂いの無い、しかもニュアンス充分の演奏を聴かせるベーレントには全く舌を巻いてしまうが、バックのオケも本当に凄い。元々この「アランフェス」はプーランクが「無駄な音が全く無い」と絶賛したように非常にスリムな編成で書かれている分、オケの力量が剝き出しにされてしまうのだが、さすがベルリン・フィル。随所に出てくる木管やチェロのソロが、その度に「おお!」を身を乗り出してしまう程の素晴らしさなのだ(もし私にベルリン・フィルの名盤を5点選べ!という命題が下ったとしたら、数あるカラヤンとの名盤と並んでこの盤は必ず入れてしまうだろうと思う)。あたかもアジアのヒップなリゾートホテルの如く、カジュアルな楽しさとキッチリした折り目正しさのバランスがこの上なく絶妙なのである。これを聴いたが最後、私は他の「アランフェス」がどれも生ぬるくて聴く気がしなくなってしまった程だ。
 
ベーレント(1933~1990)はベルリン出身。ピアニストとしてスタートするも、ギターの魅力に憑りつかれてギタリストに転身し、更には作曲家、指揮者としても活躍したという多芸多才な変わり種。昭和天皇の前で演奏したり、日本がネタの作品を作ったり・・と、実は日本とも縁のある人だったらしい。
 
1965年録音のこの名盤、カップリングのカステルヌオーヴォ=テデスコの名協奏曲も「アランフェス」と同じ方向の目の覚めるような名演なのだが、
ずっと日陰者の地位に甘んじている。今回ご紹介の豪ELOQUENCEの盤もかなり前に出たもので、今日でも容易に入手できるのかは定かでは無いし、今後も表舞台に立つ事はほとんど期待出来ない存在だろう。
 
でもこの盤、「アランフェス」が好きな方でこの録音を聴いた事が無ければそれは大損!と断言したい名演だけに、このまま自然消滅・・というのは余りにも惜しい気がする。マイナーながらシブい名演、名匠の宝庫だったあの頃の廉価盤ワールド。今や廉価盤もメジャー音源が席捲してしまっている状況下、埋もれたままになってしまう名演奏が今後も増えてしまうのだろうか・・・・・
★猫丸しりいず第183回
 
◎ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
 
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 他
(海外EMI 6407882)

 
来日を果たせなかったにも関わらず、その独特の「情」に溢れた音楽で、今でも日本のリスナーに根強い人気の名匠バルビローリ。
 
その指揮に感動した楽員たちのリクエストで録音が実現した、という「マーラーの9番」を巡る有名な逸話が物語るように、一種「神がかり的」なオーラを放つ人だったらしい。彼は晩年は酒が手放せなくなり、リハーサルの時でさえ、指揮台の横にウイスキーの瓶が置いてあるような状態だったそうである。彼が1970年の大阪万博での来日直前に急死したときは70歳であった。
 
私が非常に残念に思うのは、「来日が果たせなかった」という事よりもむしろ、70歳という指揮者としてまだまだ働ける齢で彼が亡くなってしまった事。酒が命を縮めたのか・・・。
酒が決して嫌いとは言えない私も自戒せんとイカン・・と思わせる。
 
と、ここまでお読み頂いて、「オイ、今回はカラヤンのマイスタージンガーがテーマじゃ無いのか。何をダラダラとバルビローリの話をしているんだ」と怪訝に思われた方もいらっしゃると思うが、別に間違えた訳でもボケた訳でも無い。ここからが本題である。
 
この「マイスタージンガー」は、カラヤンとドレスデンのオケが共演した唯一の商業録音。
録音された1970年と言えば、カラヤン&ベルリン・フィルの絶頂期の筈なのに、なぜわざわざドレスデンで録音したのか?。この点については様々な憶測が乱れ飛んでいた。しかし、かなり前になるが(確か山崎浩太郎さんの文章だったと思うが)この件の真相に関する驚くべき事柄を知った。それは、「このマイスタージンガーの録音の本来の指揮者はバルビローリであった」という事である。
 
ではなぜこのプロジェクトが流れてしまったのかと言えば、1968年に発生したチェコスロヴァキアの変革運動(「人間の顔をした社会主義」というコトバで有名である)にソ連を主体とするワルシャワ条約機構軍が介入し、弾圧した「プラハの春」事件にバルビローリが抗議の意志を示すために、「東側」のオケとの共演をボイコットした結果、必然的に当時「東側」の東ドイツだったドレスデンでの録音が「幻」と化してしまった・・・という事なのらしい。
 
そして、この録音が元々バルビローリの指揮を前提としていた、という事の裏付けの一つとしてこの文章の中で示されていたのが、この録音のプロデューサーがロナルド・キンロック・アンダーソンである事。実はこの点は私もずっと気になっていた点であり、なぜバルビローリの録音を多く手掛けたアンダーソンがこの時だけカラヤンと組んだのか・・という謎がまさに「腑に落ちる」感じであった。
 
では仮に「プラハの春」の一件が無ければ「バルビローリのマイスタージンガー」が実現していたのか、と言えば、前述の通り晩年のバルビローリは酒浸りで体調も不安定だったようなので、この手の巨大プロジェクトが実現出来たか否かにはやっぱり微妙な部分は残る。無論、上記の様な数奇な過程を経て生まれたものだからと言って、カラヤン盤の「名盤」としての価値がいささかも損なわれる事はないのだが、それでもバルビローリの演奏を愛する一人としては、バルビローリ&ドレスデンという凄い顔合わせによる特濃(多分)の「マイスタージンガー」を聴いてみたかった・・・という気持ちを拭い去る事は出来ない。
 
今日我々が手にするクラシック音楽作品のCDやレコードは、一見ただのパッケージメディアにすぎないように思えるが、その誕生の過程には色々と生臭く人間臭い、時代の空気が封じ込められている。この「マイスタージンガー」は、その事に改めて思いを馳せてしまう名盤である。
 
★猫丸しりいず第182回
 
◎ドヴォルザーク:スラヴ舞曲
 
 カレル・シェイナ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
(チェコSUPRAPHON  SU1916-2011)

 
 「脇に徹して輝く」。この事の難しさは、以前この「猫丸」でもとりあげた。
 
一昔前に比べて音楽家の「層」が非常に薄くなってきたように感ずる。これは音楽界だけではなくて、演劇、演芸等々の「芸事全般」に対してそう言えるのかもしれない。「名脇役」と呼べる存在がとても減少している。「寅さん」の佐藤蛾次郎みたいに、ちょっとしか出てこないのに、出てくるだけで観客に「やはりコイツが出てこないと」という納得感みたいなものをもたらす存在。そういう人が減っているのは寂しい。
 
「指揮界の名脇役」と言えば、まず私の頭に浮かぶのはチェコの名匠カレル・シェイナ(1896~1982)。元々はチェコ・フィルのコントラバス奏者であったが、巨匠ターリヒに勧められて指揮活動を始め、1938年にチェコ・フィルの副指揮者に就任。以後約30年の長きに亘り、このポジションを務めあげた人。ちょうど音楽監督がターリヒ~クーベリック~アンチェルという時代という訳で、彼らに比べれば表舞台に立つ事も、録音の数も少なく、しかも録音のほとんどがモノラル期という、典型的な「忘れ去られコース」を歩んだ不運な存在である。
 
かなり前に突如コロムビアから彼の録音がまとまった形でリリースされた事があり、私を含めた一部マニアを狂喜させたのだが、廃盤になって久しい。最近本家スプラフォンから「田園」「未完成」「プラハ」「マーラー4番」等の彼の代表的な録音を集めたセットが出たのは喜ばしかったが、何とも残念なのは、そのセットにはチェコ音楽の録音が全然含まれていない事。
 
名演&名ジャケットの「わが祖国」、フィビヒの交響曲、そしてこの1枚だけでもシェイナの名は不滅!と思える「スラヴ舞曲」等々がそっくり抜け落ちているのは残念至極(「チェコ音楽編」が別途出るのなら、こんなウレシイ事は無いのだが・・)。中でも「スラヴ舞曲」は1959年の、彼の数少ない貴重なステレオ録音盤。
 
「スラヴ舞曲」の名盤と言えば、自分にとってまずはDGのクーベリック盤。これを初めて聴いた時は「一体俺は今まで何を聴いてきたんだ」と思う程の、まさに「目から鱗が落ちる」ような感動を受けた。ただ、バイエルン放送響はムチャクチャ高性能で、その切れ味の良さは痛快無比なのだけど民俗的な「土臭さ」は稀薄で、その点だけがちょっと物足りない。それをカバーするもう一つの超絶名盤がこのシェイナ盤。「そうか、この曲は舞曲なんだ」というアタリマエの事を再認識させてくれる素晴らしい演奏である。
 
素朴で暖かく、力強いオケの音色。テンポ、メリハリ、フレージングが実に自然でまさに「自家薬篭中」という趣きだが、それが少しもルーティン・ワークという感じに陥らず、活気溢れる快演になっている。聴いているとじっとしていられず、思わず体が動き出してしまうような、そんな演奏だ。伊福部昭の曲を海外のオケが演奏すると、何だか響きの重心が高くて「オ~イ、もっと腰を割れよ」と言いたくなってしまうが、日本のオケがやると自然に腰の座ったリズムや響きになるように、チェコ・フィルの「スラヴ舞曲」の自然な力強さは、この曲がまさに彼らの血となり肉となっている事を実感させる。「スラヴ舞曲」の好きな方には是非とも一度は耳にして頂きたい名演奏だ。
 
「脇役」は決して「主役を張る能力の無かった人」では無い。「華」には欠けても、その確かな仕事ぶりで聴き手を唸らせる玄人好みの「名脇役」。
少ない人材を奪い合い、短期間で「消費」してしまうような昨今の状況から、かつてのような「名脇役」と言うにふさわしい人材が生まれてくるのか・・。「脇役マニア」としては危惧を抱かざるを得ない今日この頃ではある。
 
★猫丸しりいず第181回
 
◎ディーリアス:フロリダ組曲
 
デイヴィッド・ロイド=ジョーンズ指揮 イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア
(NAXOS 8553535)
 
人は一体何のために音楽を聴くのか?
 
単純に「楽しむため」という答えも当然あるだろうが、その中でも細分化すれば「気分を高揚させるため」、あるいは逆に「気分を落ち着かせるため」と分ける事も出来そうだ。そう言えば、高校生の時の生物の時間に「交感神経」「副交感神経」というコトバを習った時、
キョトンとして「ハニワ顔」になった私たちに生物のM先生(ショルティ+マルケヴッチ÷2といった風貌)が、「ウン、クルマに例えれば交感神経はアクセル、副交感神経はブレーキみたいなものだな」とフォローした事を突然思い出してしまったが、そういう観点からだと私にとって「交感神経系」のクラシック作品はベートーヴェンとか、ロッシーニ、ヴェルディ、ワーグナーとかになるのだろう。
 
すると自分にとって「副交感神経系」の作品は?
ピアノ曲では文句なしに、既に以前「猫丸」でとり上げた「フレセの花々」(詳しくはコチラで
http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/974/)。そして、管弦楽曲での代表選手が今回のテーマ「フロリダ組曲」だ。
 
ディーリアス(1862~1934)は日本ではエルガー等と並び、近代イギリスを代表する作曲家というポジションを得ている(この点に関しては三浦淳史さんの功績が相当大きいと思う)し、私も彼の作品は非常に好きなのだが、日英両国以外の国々では果たしてどの位人気があるのだろうか?
 
彼の作品には確かに「英国的」な香りはあるものの、どこか「無国籍」的な不思議な雰囲気が漂っている。そして、「輪郭クッキリ、構成キッチリ」という感じとはまさに対照的な、奔放で茫洋とした佇まい。それは彼自身の「無国籍的」な生い立ちが生み出したモノでもあろう。ドイツ生まれの裕福な商人の家に生まれ、父親の仕事の関係で早くからドイツ、北欧に渡ったが、仕事そっちのけで音楽に夢中な日々を過ごす。続いてはアメリカはフロリダのオレンジ農園に送り出されるが、そこで耳にした黒人労働者たちの音楽に強く惹かれ、またもロクに仕事はせずに音楽三昧の生活を送って帰国。ここに至って彼の父は息子に家業を継がせる事を諦め、正式な音楽教育を受けるための学費を出してくれる。金持ちだからそんな事も出来たのだろうし、息子の状態を見て「コイツは固い仕事には向いとらん」と悟っただけなのかもしれないが、まあ理解のある父親ではある。
 
彼はワーグナーや、フランス、北欧の音楽等から様々な影響を受け、そこに彼自身の個性も加わり、雑多な要素が絡み合った独特の音楽を生み出す事となった。そんな彼の作品の中で、私が最も愛聴しているのが1888年に初演された彼の最初の管弦楽曲「フロリダ組曲」。
 
ライプツィヒでの初演はプライベートな形で行われ、立ち会ったのは作曲者及び彼と当時親交があった作曲家2人の合計わずか3人!だけだったという話。が、この2人の作曲家とはグリーグとシンディングだったというのだから超豪華。この曲が一般に知られるようになったのは、それから更に50年経ってビーチャムがとりあげてからとの事。フロリダの夜明けから夜までの一日を描いた作品。英国的なユッタリ感と、どこかノスタルジックでエキゾティックな雰囲気が共存した魅力あふれる曲で、聴いているとフロリダの農園の広大な景色を一日ただボ~ッと眺めているような、ノンビリした気分に浸れる。雄大な自然の中で、何も考えずに聴いていたい・・と思わせる名曲だ。
 
ディーリアスという男自身のキャラクターにも因るのだろうが、彼の音楽はソナタ形式に象徴される「起承転結キッチリ感」みたいなものが稀薄で、悪く言えば構成が弱く、「何やってんだかわからない」的なテイストが強いのだけど、そこにこそ少なからぬ聴き手を惹きつける魅力があるのだろう。
日々時間に追われる「交感神経全開」的な生活を送らざるを得ない人間にとり、バランスをとるための貴重な「副交感神経」系楽曲として、これからも愛聴していきたいと思う。
 
この曲の音源は、一般的にはビーチャムやマッケラスのものが有名で、実際優れた演奏なのだが、私はこのNAXOSのロイド=ジョーンズ盤が最も好きだ。この指揮者のイギリス音楽録音には秀演が多い。この盤、「フロリダ」の名演の他、マニア狂喜の初録音の珍曲も含まれるおススメの逸品!
★猫丸しりいず第180回
 
◎ガーシュウィン:歌劇「ポーギーとべス」
 
ニコラウス・アーノンクール指揮 ヨーロッパ室内管弦楽団
 
レマル(ポーギー)カバトゥ(べス)他
(国内SONY/RCA SICC1290~2)

 
 今年の8月28日は「ワシントン大行進」からちょうど50周年。アメリカの黒人差別の撤廃を求めた人々による歴史的なデモであり、公民権運動家キング牧師による演説「I have a dream」が行われた事でも有名である。
 
20世紀のアメリカを代表する名演説として知られる「I have a dream」。私がこの演説に初めて接したのは、もう40年も前の小学生の時。ドキュメンタリーか何かだったか、この演説の映像がテレビから流れていたのである。当時英語など全く理解出来ない私は、キング牧師が何を語っているのか、皆目見当がつかなかった。にもかかわらず、これがとんでもない名演説である、という事は何だか直感的に感ずる事が出来た。しかし、その「理由」について考えた事は今まで全然無かった。
 
今は本当に便利な世の中で、この演説をいつでも好きな時に動画投稿サイトで見聞きする事が出来る。「ワシントン大行進から50年」のニュースを見たのを契機に、ン十年ぶりにこの演説を聴いてみる事にした。
 
聴いて唸った。やはりこれは超ド級の名演説である。約15分と決して長くない演説だが、その無駄の無さ、構成の巧みさ、凝縮度の凄さはまさに比類が無い。そして、何よりも感じたのは、この演説が実に「音楽的」であり、内容云々以前に「サウンド」として素晴らしいという事であった。
 
有名な「I have a dream」というフレーズは、演説の後半で繰り返し登場するフレーズだが、この他にも
 
One hundred years later(あれから100年経っても)
Now is the time to(今こそその時だ)
 Let freedom ring from (自由の鐘を打ち鳴らせ!)
 
等々のフレーズを、キング牧師はたたみかけるように繰り返し、聴き手をグイグイと引き込んでいく。
そして、「I have a dream」が繰り返される部分辺りから、最初は比較的淡々としていたキング牧師の口調は明らかにアグレッシブになり、音量もフォルテになり、凄い昂揚感の頂点でフォルティッシモで終結させる。実に見事だ。あたかも、幾つかの印象的な旋律を繰り返しながら聴き手に認識させ、最後の最後に神々しい主題をフォルティッシモで現出させて、圧倒的なクライマックスを築き上げる。そんな一篇の交響曲を聴いているようであった。この演説が、英語の全然わからない小学生にも強烈な印象を与えたのは、単に「サウンド」として捉えても素晴らしいという特色ゆえであろう。
「I have a dream」に関するサイトは非常に多く存在するので、様々な角度から容易に接する事が出来る。興味のある方は是非見て頂きたい。
 
ところで、この歴史的名演説が生まれた背景には、リンカーンによる奴隷解放宣言から100年経っても、黒人差別が無くなっていないという現実があった(前述の「One hundred years later」というフレーズは、その事を示している)。そこで頭に浮かぶのは、ガーシュウィンの名作「ポーギーとべス」である。 
 
「人類の至宝」と呼んで良い、この大傑作。舞台となっているのは奴隷解放宣言から60年以上経った1920年代のアメリカ南部。一向に無くならない差別、貧困、麻薬、殺人・・等々、自分たちを取り巻く厳しい環境の中、それでも希望を捨てず、信仰を糧に逞しく生きていく黒人達を描いた作品。3時間以上の長丁場でストーリーには救いの無い暗さが漂い、非常にヘビーな内容なのだが、とにかく音楽が素晴らしすぎる。全曲親しみやすい旋律に満ち溢れている事は、かえって(皮肉にも)この曲が永らく「軽く」扱われる原因となってしまったのだろう。しかしもう今、この曲が堂々たる「オペラ」である事に異論を挟む人は少ないのでは無いか。
 
この曲の名盤としては、まず何と言ってもDECCAのマゼールとマウチェリーによる2組を挙げたい。が、今回は大穴アーノンクール。彼と「ポーギーとべス」という組み合わせはあまりに意表を突いている。正直言って初めて聴いた時には相当な違和感があった。しかし、何度も繰り返し聴いてみる内に、彼が如何にこの作品に愛着を持ち、隅から隅まで目を光らせ、「この箇所はこうでなければ」という確信のもとに演奏しているかがヒシヒシと伝わってきて「さすがアーノンクール」と感服させられた。歌手陣は、マリア婆さんを演ずるロバータ・アレグザンダーと、クラウンを演ずる、そしてこの役をやらせたら天下無双の名バリトン、グレッグ・ベイカー以外は主役の二人を含め全然知らない人たちばかりだが、皆非常にレヴェルの高い歌を聴かせてくれる。ファーストチョイスとしておススメするにはどうかと思うが、ついにこの曲も「アメリカの」という枕詞の付かない純然たる「オペラの古典的名作」の地位を獲得したんだ、という感慨に浸らせる、そんなユニークな名盤である。
 
 
★猫丸しりいず第179回
 
◎カントルーブ:オーヴェルニュの歌
 
 ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレス(S)
 ジャン=ピエール・ジャッキャ指揮 コンセール・ラムルー管弦楽団
(海外EMI  66993)
 
◎アーン:エステ家のベアトリーチェの舞踏会
  フォーレ:パヴァーヌ(合唱付) 他
 
 ジャン=ピエール・ジャッキャ指揮 パリ管弦楽団
(仏EMI 7476472/廃盤)

 
「フランス・パテ 裏三羽烏」の最後を飾るその人は、フランスの指揮者、ジャン=ピエール・ジャッキャ(1935~1986)。
 
この人は今日、名ソプラノのロス・アンへレスの代表的名盤「オーヴェルニュの歌」の伴奏指揮者として、辛うじて記憶されているに過ぎない。が、この「オーヴェルニュの歌」で、彼はラムルー管のいかにもかつてのフランスのオケらしい鄙びた音色を上手く活かして、センス充分かつ緩急自在の名伴奏ぶりを聴かせる。如何にロス・アンへレスの名唱があろうと、この名伴奏が無かったら、この盤がここまで不朽の評価を得る事にはならなかったのでは・・と思う程だ。
 
彼はパリ管弦楽団の創設時に、その副指揮者を務めた人。小澤征爾と同い年なので、フランスの威信をかけた楽団の副指揮者に30歳代前半の若さで起用されたという訳だ。その事は彼の非凡な才能の裏付けになると思われるのだが、そんな人にもかかわらず、彼に関する情報は余りに少ない。
 
ヴェルサイユに生まれ、パリ管の後はアイスランド交響楽団の主席指揮者を務めたが、不幸にも51歳の若さで交通事故で亡くなってしまった・・という事位しかわからない有様なのである。録音はパリ管の創設時から1970年代前半にかけてパテに残した数点と、少数のアイスランド響との共演盤にほぼ限られており、しかもそのほとんどは残念ながら現在入手困難である。かなり前に豪ABC放送の60周年記念CD-BOXを入手した時、ジャッキャがシドニー響を振ったデュリュフレの「3つの舞曲」の録音が含まれていたのに驚いた記憶があるが、オーストラリアにも定期的に客演していたのだろうか。
 
彼がパリ管を振ってパテに残した録音は、ルーセルの管弦楽曲集やメサジェのバレエ「二羽の鳩」「イゾリーヌ」、そして今回ご紹介のアーン(オリジナルLPはメサジェとのカップリング)やフランス管弦楽名曲集など多くは無いが、いずれも捨てがたい味わいの名演揃いだ。中でも面白いのが、レイナルド・アーン(1875~1947)の珍曲。ベネズエラ出身でフランスに帰化した作曲家アーンは歌曲の作曲家というイメージが強いが、「エステ家のベアトリーチェの舞踏会」は管楽合奏とピアノと2台のハープというユニークな編成で書かれた作品。この曲、実に典雅かつオシャレな「おフランス」風味に溢れた素敵な作品で、パリ管の管楽器の名手たちが惚れ惚れするような美音、美演を聴かせてくれる。この曲の他、ベルリオーズ編曲の「ラ・マルセイエーズ」や「狂詩曲スペイン」「牧神の午後への前奏曲」「魔法使いの弟子」「死の舞踏」等々のフランス管弦楽作品の「鉄板の名作」が収録されている。
 
これらの曲の演奏全てに通じる印象は「颯爽として粋」の一言に尽きる。
私は「本場もの至上主義」では全然無いのだが、こういう演奏を聴いてしまうと、まさに「母国語で喋ってます」という感じの自然体の名演に「やっぱりフランス人にはかなわねえや」とつい感じてしまうのだ。ジャッキャという指揮者の短い輝きを刻んだ名録音の数々が、前述のように今日ほぼ入手困難な状態なのは残念。いや、彼の録音ばかりでなく、パリ管が創設時から1974年までに様々な指揮者と共演しパテに残した多くの名盤が、ミュンシュ、マルティノン等のごく一部の有名音源以外ほとんど今日入手困難なのは、それ以上に残念だ。
 
過去に蓄積された膨大な巨匠たちの音源だけでも市場が溢れ返っている現在、「隠れ名匠」的な演奏家たちの音源はますますその「居場所」を失い、入手が難しくなっていくのだろう。そんな時こそ我々中古ショップの出番。さあ皆さんも隠れ名盤探訪のために、今すぐ中古ショップに走りましょう!! と、最後に宣伝(笑)。
★猫丸しりいず第178回
 
◎シャブリエ:楽しい行進曲、田園組曲、歌劇「いやいやながらの王様」からの2曲 他
                        (国内EMI TOCE3458 廃盤)
 
◎ピエルネ:「シダリーズと牧羊神」第1&第2組曲、ラムンチョ序曲
                        (国内EMI TOCE9818 廃盤)
 
 ジャン=バティスト・マリ指揮 パリ国立歌劇場管弦楽団
 
 
 
ポール・シュトラウスに続く「フランス・パテ・裏三羽烏」。その人の名はジャン=バティスト・マリ。
 
「指揮者の当たり年」1912年生まれのこの名匠、メジャーな存在の人では無いが、私と同世代以上の日本のクラシック・ファンの方々には意外に馴染みのある名前かもしれない。と言うのも、彼は私が中学生~大学生位の時期にかけて、東京フィルをはじめとする日本のオーケストラに何度も客演しているのだ。だから、彼のステージに接した方も実は結構いるのでは無いか。私は残念ながら彼の実演を聴く機会を持てず、それを後悔している。
 
当時フランスが支配していたアルジェリアに生まれ、当地のオーケストラで奏者として活動した後、第2次大戦の終結後から指揮者としての活動を本格化させたという人。ただ、若い頃のアルジェリアでの経歴には、やっていた楽器がチェロだったり、テューバだったり・・・と色んな話があって真相はよくわからない。もし、テューバ奏者出身とすれば、指揮者としてはかなりの変わり種である。
 
マルケヴィッチの後任としてラムルー管の指揮者を長年務めるなど、中堅として活躍した彼だが、主要な録音は1976~7年にかけての仏パテへのものに集中している。しかも、パリのオペラ座のオケというメジャーな割には録音の少なかった楽団との顔合わせになっていることもオタク魂に火を付けるに充分。そして、この録音が残された事は、マリにとっても、クラシック・リスナーにとっても誠に幸運な出来事であった。何しろ選曲が絶妙。今でも代表的名盤として繰り返し再発されているドリーブの「コッペリア」「シルヴィア」、そして今回ご紹介のシャブリエとピエルネという、「まさにこのコンビで聴きたかった!」という曲目ばかりである。
 
マリという指揮者は「独裁型」「統制型」では無く、楽員にノビノビと演奏させるタイプだったようだ(マルケヴィッチ退任後のラムルー管が今日に至るまで歯牙にもかけられない存在になってしまったのは、マリのユルイ統治に問題があったから・・という話も聞いた事がある)。一方、オペラ座のオケは飛び切りの名手が多いが、「軍隊的にキッチリ揃った仕事をする」などという気の無い、世界屈指の「暴れ馬」楽団らしい。そんな彼らの特色が、これらの録音では最良の形で生かされている。「気の置けない大将と一緒にワイワイ楽しくやってます!!」という感じで、音楽に窮屈なところが全く無く、全編はち切れるような生命力に溢れているのだ。
 
シャブリエの「楽しい行進曲」や、「いやいやながらの王様」の「ポーランドの祭り」、ピエルネの「シダリーズと牧羊神」の「牧羊神の学校」などは、まさに「こうでなくっちゃ!」と叫びたくなってしまう程のカラフルな名演奏。「暴れ馬に暴れさせておきながら、自分は決して落馬しない」という感じのマリの手綱さばきが実にお見事である。管楽器を中心にいかにもフランス的な響きを立てるオケの音色も最高だ。ただ、こういうスタイルの演奏が、例えばラヴェルとかドビュッシーをやって同様に成功するか・・と言えば、ちょっと微妙なところ。だから尚更、ドリーブ、シャブリエ、ピエルネという最適のラインナップをこのコンビに委ねた仏パテのスタッフの眼力には、心から敬意を表したい。
 
しかし、こんな大名盤が揃いも揃って長年入手困難とは・・・。EMIの中では「無敵」の存在と言える「コッペリア」や「シルヴィア」に比べると確かにこの2点の立ち位置は非常に不利なのは否めないが・・・。多少の粗さはあってもワイルドな味わいに満ちた「地鶏」の如き名演奏だけに、このまま消え去ってしまうのは忍びない。復活熱望である。
 
さて次回は「裏三羽烏」の3人(3羽?)目。某名歌手の伴奏で辛うじて名を残しているフランスの指揮者が登場。さあ一体それは誰でしょう。
★猫丸しりいず第177回
 
◎オッフェンバック:パリの喜び(ロザンタール編)
◎J・シュトラウス:青きドナウ(デゾルミエール編)
 
ポール・シュトラウス指揮 ベルリン放送交響楽団
 (独DG 002894775349)
 
◎ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」~ハンガリー行進曲
 プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」~行進曲 他
 
ポール・シュトラウス指揮 リエージュ管弦楽団
 (仏EMI CDM7691202 「マーチ名曲集」 /廃盤)

 
 「指揮者」は一般的に他の音楽家に比べても活動期間が長い。結果的にレコーディング・キャリアも長期に亘り、万遍なく・・・というケースが多くなる。
 
ところが、中にはそのキャリアの特定の時期に録音が集中し、しかもそれが名盤揃い・・という不思議なケースも存在する。今回はそんな指揮者の代表格、ポール・シュトラウスをご紹介。
 
彼はシカゴ出身で、ミトロプーロス時代のニューヨーク・フィルでアシスタントを務め、その後はヨーロッパを中心に活躍した人。1967年にセザール・フランクの出身地として知られるベルギーの都市リエージュのオケの指揮者に就任。このオケの実力、名声を一気に高める。私が高校生の時に聴いたのが、今回ご紹介のフランスEMI(パテ)音源の「マーチ集」。標記の2曲の他、「威風堂々第1番」「ラデツキー行進曲」「軍隊行進曲」等々のオーケストラ・マーチを集めたものだが、全然知らない指揮者とオケにも関わらず、その明快で素晴らしい演奏に私は一発で魅せられてしまった(中でも「威風堂々」はマリナー盤と双璧の名演で、この名盤が現状入手困難なのはクラシック音楽界にとって大損失と本気で思っている程だ)。
 
このコンビの録音が他にも無いか・・と探すと、リエージュゆかりのフランクの交響詩集や、ブラームスの「ハンガリー舞曲(全曲)」を発見。これがまたアッと驚く名演ばかり。特にフランクの「プシュケ」の超美演には大いに魅了された。しかし、この名コンビは1974~1976年という短い期間に上記を含むわずかな録音を残しただけに終わってしまった。
 
ところがそれからかなり経ってから、この指揮者は1958年を中心にフリッチャイ時代のベルリン放送響を指揮して、ドイツ・グラモフォンへ少なからぬ数の録音を残している事を知った。ご紹介のCDはレコード3枚からの編集だが、最初の「パリの喜び」を聴いて思わずウ~ンと唸ってしまった。この曲、個人的にはマゼール盤のようなフランスのオケによる軽く華やかな響きの演奏が好みなのだが、この演奏はドイツのオケらしい腰のすわった響きを生かしながら決して鈍重にならず、明快で活き活きしたとても楽しい演奏になっている。続く「青きドナウ」はヨハン・シュトラウスの名曲をバレエ用にロジェ・デゾルミエールが編曲した、「パリの喜び」と同様な発想の曲。これは曲そのものが貴重。そして最後に収められた序曲3曲、ベルリオーズの「海賊」、ドヴォルザークの「謝肉祭」、オーベールの「フラ・ディアヴォロ」も、皆全て生命力あふれる名演奏で、大いに満足出来る。
 
以上、振り返ってみると、このポール・シュトラウスという指揮者の録音レパートリーには「一貫性」と言うか、「脈絡」みたいなものがまるで感じられない。だが逆に言えば、そんな「脈絡の無い」オールラウンドなレパートリー全てでこれだけ高得点の成果を(録音年代の隔たりにも関わらず)残している・・という事は、この指揮者の有能ぶりを実証する何よりのあかしと言えるのではないだろうか。となると、これだけ有能な指揮者がそのキャリアのほんの一部において集中的にしか録音を残せなかった事は、残念としか言いようがない。しかもそれらのほとんどが現状入手困難なのは尚更遺憾。
 
このポール・シュトラウスの他、フランス・パテに1960~70年代にかけてピンポイント的に素晴らしい録音を残したマイナー(失礼)指揮者があと2人いる。私はこの3人の名匠を勝手に「フランス・パテ・裏三羽烏」と呼んで敬愛しているのだが、次回、次々回は残りの2人をご紹介。さあ、一体それは誰でしょうか・・・・
★猫丸しりいず第176回
 
◎プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」
 
エーリッヒ・ラインスドルフ指揮 ローマ歌劇場管弦楽団
 
  ニルソン、テバルディ(S) ビョルリンク(T) トッツィ(B)他
(海外BMG/RCA 09026626872 2枚組)
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子供の頃は、とにかく「楽典」が苦手だった。正直、「長調」と「短調」だけあれば良いじゃないか、なんで「ハ長調」とか「変ロ短調」とか面倒臭く分かれているのか、と恨めしく思っていたものである。
 
しかし、その後自分で音楽を聴いたり、弾いたり・・・という経験を長年積み重ねていく事で、ようやくそれぞれの調性には独自の「色」や「特徴」があり、その違いを作曲家はうまく使い分けているのだ・・という事がわかってきた。自分にとって、その一番のサンプルと思えるのがプッチーニの「トゥーランドット」。この曲、とにかく調性の巧みな使い分けによる鮮やかな心理描写が素晴らしいの一言。
 
ポイントは幾つかあるが、まず第一は「ヘンテコな調の多用」。この曲の有名なアリア、とにかく妙な調が多い。「お聞き下さい、王子様」は変ト長調、「泣くなリュー」と「氷のような姫君の心も」はその平行調の変ホ短調。いずれもフラット6つ!の読みづらく、鳴りづらい調。登場人物の苦悩や悲嘆が伝わるこもった響きのアリアが連なる中で、全く色合いの異なるノビノビとして輝かしい響きを持つ「誰も寝てはならぬ」はト長調。ドヴォルザークの「交響曲第8番」とかマーラーの「交響曲第4番」と同じ、あのメルヘンメルヘンした調で書かれている。この鮮やかなコントラストは絶妙の一言に尽きる。
 
お次は「この御殿の中で」の最後の部分で、トゥーランドットとカラフが「謎は3つ、死(生)は1つ!」と3回繰り返すところ。変ホ長調→嬰ヘ長調→変イ長調と、繰り返しながらどんどん高くなっていき、主役2人の「もう一歩も引けない!」という緊迫感がヒシヒシと伝わってくる。血管のキレそうな猛烈な昂揚感を伴うこの部分は、このオペラで私が最も好きなシーンである。
 
そしてもう一つ、「3つの謎解き」の」場面。この部分は一聴すると、一問ずつ同じ事を3回繰り返しているだけのように思える。しかし、よ~く聴くとわかるが、実は3回目だけ、その前の2回より半音高くなっているのである。「想定外の事態」の発生に動揺する姫、「これは勝てるかも!」と高揚するカラフ、そんな2人の心理の動きが見事に描かれる。オケや合唱の見事な使い方といい、「こだわり屋」プッチーニの総決算とも言うべきスゴイ作品だ。
 
周知のように、プッチーニはこの曲を独力で完成する事が出来ずに世を去り、今日主に演奏されるのはアルファーノにより補作されたものだ。
以前この「猫丸」でネタにした通り、私はアルファーノの補作の仕事ぶりは高く評価すべしと思っているし、世評ほど悪いものではないと感じているが(詳しくはこちらでhttp://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/902/)、それでもやっぱりこれ程の「こだわりおやじ」のプッチーニが自分のオペラ創作の総決算と言える作品をどのように終わらせたかったのか・・という点は知りたかった、という気持は捨て去れない。
 
さて、名盤ひしめく「トゥーランドット」ではあるが、その中で不滅の名盤と断言したいのが今回ご紹介の盤。指揮者や演出家に全てが牛耳られている感のある現在のオペラ界と異なり、「歌手こそ全て!」という古き良き時代の匂い漂う録音(歌手たちが皆、聴かせどころで「アタシの(俺の)歌をお聴き!!と言わんばかりの個人プレイを乱発するのが微笑ましい)。メインの4人を、まさにドリームキャストと呼びたい名歌手たちで固めた布陣も凄いが、脇役、なかんずく主役級に重要なピン・パン・ポンの3役人を演ずる芸達者なセレーニ、デ・パルマ、フラスカーティにも大拍手。でも何と言ってもカラフにビョルリンクを起用している事が、個人的には極めてポイント高い。
 
思えば、昔、ライナー指揮のヴェルディ「レクイエム」のレコードを聴いた時の事。「インジェミスコ」のまさに「絶唱」と形容したいテノールの名唱を聴いて「金縛り」級の感動を受けた私。その歌手が、ユッシ・ビョルリンクという、スウェーデン人でありながら「イタリア人よりイタリア的」と絶賛され、1960年に49歳の若さで心臓発作で亡くなってしまった名歌手・・という事を知ったのは随分あとの事だったが。この「トゥーランドット」は1959年の録音なので、「ヴェルレク」と並ぶ彼の最後の録音の一つとなる訳だ。
 
カラフ役は、あの「3大テノール」をはじめ様々な名テノールが演じているのだが、周囲が必死に止めるのも聞かず謎解きに挑んだ「無鉄砲な大馬鹿野郎」というカラフのキャラクターをこれほど「直球」で見事に描いた歌唱を私は他に知らない。ニルソンとの「スウェーデン・コンビ」で、全編手に汗握る歌の饗宴を聴かせてくれる。
前述の「謎は3つ、死(生)は1つ」の場面は、まさに「ここまでやりますか!」と言いたくなる程のド迫力!!。ラインスドルフのこれまた「直球」の指揮ぶりはあまり世評が高いとは言えないのだが、彼のビシッと締まった音楽造りは、この演奏をただの「名歌手たちの個人プレイの羅列」に陥る事から救っている、中々の名指揮と私は感じている。そして、50年以上前のモノとは思えないRCAの鮮烈な名録音! スコアを丹念に読み込んだ上で、「この部分はこう聴かせるんだ!」という、作り手の意志が明確に伝わってくる。
 
1926年初演という事は、「春の祭典」や「ヴォツェック」よりも後輩、まだ87歳という意外な「若さ」のこの名オペラ。絢爛豪華なイタリアオペラの最後を飾る作品。皆様ももう一度「耳を澄ませて」聴いてみては如何?

 

 
★猫丸しりいず第175回
 
◎ロッシーニ:スターバト・マーテル
 
 チョン・ミョンフン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 他
(国内DG UCCG4545)
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オペラ作曲家の作った宗教曲は実に面白い。
 
ヴェルディやグノーの作品に顕著だが、作曲家自身は(多分)一生懸命、厳粛に宗教曲っぽく書こうとしているにもかかわらず、どうしても「職業病」の如く「歌」の要素が濃く出てきてしまって、出来上がったのは妙に「オペラ的」な作品。でもそれだからこそ、聴き手の心を捉え、名作として親しまれている。そんな曲が多い。私がロッシーニの作品の中で最も好きな「スターバト・マーテル」はその手の曲の代表選手。
 
この名作は、ロッシーニが37歳の若さでオペラの筆を折った後の数少ない作品の一つだが、その成立事情は中々複雑怪奇。もともとセビリャの司祭の依頼によって着手されたが、腰痛が悪化したロッシーニは独力で全てを作曲する事が出来ず、他の作曲家との合作として1833年に初演。ところが、この曲の権利を持っていた司祭が死去すると、遺族が勝手に楽譜を出版社に売り飛ばしてしまい、出版社から出版許可の依頼が来る。元々この曲の出版を望んでいなかったロッシーニは「話が違う」と大激怒。
 
そこで彼がとった「対抗処置」は、この曲を「合作」ではなく「ロッシーニ一人の手による作品」に直してしまう事。他の作曲家の曲を外し、新たに4曲を自ら作曲、追加して1842年に初演されたのが現行版である(追加された4曲は現行版の第2、3、4、10曲との事)。まあ、仮にこの「出版騒動」が無かったら、この名作は日の目を見ずにお蔵入りだったかも知れないわけで、世の中何が幸いするか分からない。
 
興味深いのは、後から追加、挿入された4曲がこの名作の中でも飛び切りの名曲揃いという事。中でもテノールによる2曲目は、彼の作品の中でも最高傑作ではないかと思う。
初めて聴いた時は「この悲しくツライ詩にどうしてこんな能天気なメロディーをつけたんじゃ!」とたまげてしまったのではあるが・・・。ロッシーニが37歳の若さで「隠居」した理由に関しては、「ひと財産築いて年金も入るあてがついたので、第2の人生を趣味の料理に充てる事にしたのだ」とか、「いや、あまりにも多忙すぎて精神もカラダもガタガタになってしまったのではないか」とか、色んな事が(好き勝手に?)言われているが、「隠居」してから10年以上経ってからでもこんな名作を生み出しているところを見ると、「才能が枯渇したから引退した」訳では無い様である。
 
私自身はと言えば、若い頃はロッシーニの人生を「理想的な、優雅な人生」と羨ましく感じていたのだが、彼が「隠居」した齢をはるかに超えた今となっては、ちょっと考えが変わって来た。個人差は無論あるだろうが、30歳代後半~50歳代前半位の年代は、「仕事人」が最も脂が乗り、充実した活動が出来る時期ではないだろうか。しかしロッシーニは、まだこんな名曲を生み出せる「余力」を保ちながら、この時期に音楽家として活動する事をほぼ捨ててしまった。彼には彼の事情があり、考えがあっての事だろうから、私のような凡才がアレコレ意見する資格は無いのだが、何ともモッタイナイという気持ちを拭い去る事が出来ないのだ。
 
さて、この名作の録音は無論少なくは無いのだが、「名盤溢れかえる」という程の状況では無い。「総合点」の高さからおススメかなと思うのがチョン盤。チョン・ミョンフンという指揮者は、ちょっとムラッ気で出来不出来の差が大きい・・という印象が個人的には強いのだが、この盤はオケの底力にも助けられ、中々聴きごたえのある秀演である。
 
それにしてもロッシーニの人生の選択はは本当に「優雅」で「理想的」であったのか?
ワインでも傾けながら、ご本人に「ロッシーニさん、貴方、本当にそれで良かったの?」と猫丸直撃インタビューをしたい心境である。

 

★猫丸しりいず第174回
 
◎ブラームス:ドイツ・レクイエム
 
ベルナルト・ハイティンク指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 他
(国内PHILIPS PHCP9049 廃盤)
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今年も「お盆」が近づいてきた。
 
50年近く人間をやっていると、「愛する者との別離」を経験する頻度がどんどん高まっていくのは自然の摂理。「別離」の直後の、あの何ともコトバで形容し難い「喪失感」は、何度経験してもツライものだ。まあ、その「喪失感」は時間の経過によって徐々に癒され、
またもとの「日常」に戻っていくのではあるが。
 
そこで「ドイツ・レクイエム」である。
 
実は私は若い頃この曲が苦手で、何度聴いてもその良さがサッパリわからなかった。ところが、40歳過ぎて「別離」の経験が急激に増えるにつれ、この曲がどんどん心に沁みてくるようになった。今では「別離」の後の喪失感を少しでも癒したいと思った時、最初にこの曲を聴くようになってしまった程だ。同じ曲でも、聴き手の人生経験の積み重ねによって「聴こえ方」が全然変わってしまう事があるのは音楽の奥深さを示すようで面白い。
 
それでは、なぜ自分は今頃になってこの曲に目覚めたのだろうか。ご紹介のハイティンク盤のライナーノーツで門馬直美さんがこんな事を書かれている。この作品は、通常のレクイエムのように「死者の霊を慰める」というより、むしろ「死に関する悲しみの音楽という方向をとっており」、死者では無く「現世の人に目を向け、その人たちに慰めを与えようとしている」。なるほどね~と思った。「死者のため」でなく「愛する者を喪って悲しむ残された現世の人たち」への眼差しが感じられる作品。その部分に自分も大きく惹かれ、共感したのだろうと思う。
 
通常のラテン語の典礼では無く、ルターによる独語訳から歌詞を自ら選び、再構成したという曲のつくりといい、起伏のなだらかなシブい曲の雰囲気といい、まさに「こだわりおやじ」ブラームスならではの熟成味すら感じるこの名曲。この曲を私は昔「ブラームス晩年の傑作」なのかと大きなカン違いをしていたのだが、実際には1869年に初演されており、その時まだブラームスは30歳代半ば。まだ「交響曲第1番」も出来ていない頃の作品であり、「晩年の熟成作」どころか彼にとっては「出世作」に当たる曲である訳だ。これは自分には本当に意外であった。
 
この曲の名盤は山ほどあり、その中であえて入手困難になってしまっているハイティンク盤をご紹介するのは多少気が引けるが、愛聴盤ゆえご容赦願いたい。「巨匠」としてのハイティンクしかご存じない若い世代の方には信じられない事かもしれないが、私がクラシックを聴き始めた1970年代半ばのハイティンクは「ボンクラ若造指揮者」的なヒドイ扱いを受けていた。しかし、1978年録音のブルックナーの交響曲第7番が大絶賛を受けたあたりから徐々に彼は正当な評価を得られるようになった。この「ドイツ・レクイエム」は1980年の録音で、まさに彼への注目度、評価が鰻上りになっていた時代のもの。奇をてらわない堅実な演奏ながら充実感溢れる名演。また、オケと合唱の素晴らしさには、ウィーンの演奏家たちの底力を痛感させる。
 
ブラームスがこの曲を書いたキッカケは「シューマンの死」であるとか、「母親の死」であるとか諸説紛々なのだが、いずれにせよ彼が「愛する者を喪った喪失感」を存分に味わった上で、この曲を書き上げた事は確かなようだ。ツライ人生経験をくぐり抜けて、そんな彼の「思い」への共感を出来るようになるとより一層この名曲への愛着が湧くのであろう。誠に「音楽は人生と共にあり」。