猫丸しりいずのカテゴリー記事一覧

★猫丸しりいず第203回
◎ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」

 プラハ弦楽四重奏団
 (独DG 4631652 ※9枚組「弦楽四重奏曲全集」)
毎度唐突で申し訳ないが、キャンディーズの話である。

 
彼女たちの意外に短い活動期間は、私が小学校高学年~中学生の頃に当たっているが、当時の「男子」たちの間ではキャンディーズのラン、スー、ミキの3人のうち、誰が一番好きか?という話題は(多分)「定番」だったのではないだろうか(それとは別に一部クラシックヲタク生徒は「ラベック姉妹の姉と妹、どっちが好きか」などという話題で暗い盛り上がりを見せていたが)。

 
実は私は断然ミキちゃん派であった。が、「ミキちゃん派」はまさに「少数野党」で、「ミキちゃんが一番!」と宣言するとその度に「え?」という反応が返ってきたものだ。確かに他の2人に比べ、ミキちゃんは美人であるが「華」みたいなものに乏しく、自分が主役となって歌う事も(ごくわずかの例外を除いて)ほとんど無かった。しかし、あのキャンディーズの名曲たちのハーモニーの「要(かなめ)」となっていたのは何たって彼女だ(「やさしい悪魔」の名唱!)。だから、ミキちゃんが欠けるとキャンディーズの歌が即時崩壊してしまう気がする。派手な活躍はしないが、欠けてしまうとそのグループに甚大なダメージを及ぼす・・・、こういう存在の人は私が最も心惹かれるタイプ。
ミキちゃんはまさにそんな人であった。

 
そして。「クラシック音楽界のミキちゃん」と呼びたい楽器。それは「ヴィオラ」である。そして「ヴィオラ」と言えば「アメリカ」だ。

 
私はこの曲を中学の音楽の授業で初めて聴いた。曲の最初に2回繰り返される印象的な名旋律。2回目を弾いているのがヴァイオリンである事はわかったが、1回目に弾いてる楽器がわからない。チェロか? でもちょっと違うような・・・。そこで授業が終わった後に音楽のT先生(猫丸3度目のご出演。いつもお世話になっております・・)に訊いてみる。すると先生、「ああ、あれはヴィオラ!」という答え。ヴィオラ!! 意外だった。盲点だった。
そして先生は続けて独り言の如く、「あの部分をヴィオラに弾かせるって、凄いアイディアよねえ・・」とつぶやいた。私も全く同感だった。

 
いつも「引立て役」のヴィオラに曲のアタマの一番オイシイ部分を担当させる、という逆転の発想もさる事ながら、まさにヴィオラの持ち味が最高に生きる低い音域で歌わせたのも凄いとしか言い様が無い。しかも、この冒頭の部分で聴き手をアッと驚かせておいて、その後は「アラ、ちょっとだけ目立っちゃってゴメンね」と言わんばかりにいつもの地道な裏方稼業に戻る・・というのが最高にシブい。そう言えば、先だってご紹介した名著「音楽を愛する人へ」の中で、芥川也寸志氏がこの「アメリカ」のヴィオラの事を、「日々割烹着か何かを着て地味に家事をこなしている奥さんが、突然ある日、見るも鮮やかな洋服を着こなし、色気をふりまきながらしゃなりしゃなりとメイン・ストリートに現れ出でて、彼女を知る男どもをびっくり仰天させるような効果」と、これ以上的確とは思えない素晴らしい形容をしている。

 
「アメリカ」のみをとり上げた音盤は、山のように存在するが、今回は、あえてプラハSQによる全集をご紹介。1970年代に集中して録音され、「糸杉」や断章まで収められたコンプリートな全集である。前回の「猫丸」でも述べた通り、ドヴォルザークは超有名大作曲家の割に、あまりに特定の人気作ばかりがとり上げられている気がしてならない。弦楽四重奏曲に関しても「アメリカ」以外の曲がほとんど無視されているのは残念で仕方が無い。「8番」「10番」「14番」などはまさにドヴォルザークならではの傑作と思うのだが・・。他の曲を色々聴いてみると、実は「アメリカ」は彼の弦楽四重奏曲の中ではむしろ「特異」な作品であるという事が感じられて興味深い。

 
自分が目立つ事は滅多に無いが、欠けてしまうと途端に合奏の響きが薄くなり、「やっぱりあれが無いと・・」と思い知らせる偉大な脇役、ヴィオラ。ウ~ン、ますますミキちゃんに似ているぞ。そして、「アッ!あのミキちゃんがいきなりセンターで歌った!」的なビックリ感爆裂の「アメリカ」のヴィオラ。
 
ドヴォルザーク先生、貴方はつくづく偉大なり。
★猫丸しりいず第202回
◎ドヴォルザーク:交響曲第3番
ヴァーツラフ・スメターチェク指揮 プラハ交響楽団
(チェコSUPRAPHON SU3968-2)
ドヴォルザークが大好きである。
 
その作品が素晴らしいから、だけでは無い。彼は「鉄道ヲタク」の元祖でもあるのだ。誠に偉大過ぎる大先輩である。彼の鉄道好きに関する逸話は、真偽の程はともかくとして多数あるが、中でも知られるのは汽車を毎日眺めるのが彼の日課であり、列車の時刻表や機関車の形式を暗記していた・・・という話。彼は30歳代半ばにプラハの駅のそばに引っ越すのだが、一説によればそのアパートは機関区の近くにあり機関車を眺めるのに打ってつけで、それに惹かれて引っ越したのでは・・との事。乗り物マニアとしては、この上なく共感出来る話である。
 
彼が50歳過ぎてニューヨークに赴いたのも、アメリカの鉄道に興味があったからでは無いか・・という憶測まで目にしたことがある(これはさすがに眉唾モノとは思うが)。ただ、実際彼はニューヨークでも「鉄ヲタライフ」を満喫?していたらしい。それにしても、彼のやってる事は今日の鉄道好きと何ら変わるところが無いのには笑ってしまう。男の趣味には「年齢」とか「社会的地位」なんてものは何の障壁にもならないのだ、と再認識させられる。
 
そのドヴォルザークだが、多くの名曲を遺しているにも関わらず、ごく限られた一部の曲ばかりが繰り返し演奏される・・という状態から中々脱却出来ないのは残念だ(この点はメンデルスゾーンに非常に似ている)。そこで今回とり上げるのは、隠れ名作の筆頭「交響曲第3番」。1874年にスメタナの指揮により初演された作品。ちなみに「第1番」は作曲者の生前には演奏されず、「第2番」は1888年の初演なので、この「第3番」はドヴォルザークが自らの耳で初めて聴けた交響曲という事になる。
 
「第1番」「第2番」がどことなく「暗中模索」なテイストを残しているのに対し、その2曲から8年の時を経て生まれた「第3番」は、まさに「一皮ムケました!」という感じ。曲が始まった途端、実にドヴォルザークらしい躍動感と推進力に満ち溢れた音楽がほとばしり、一気に惹きつけられてしまう。一般的にはワーグナーからの影響が強いと言われ、実際第2楽章には、「アレ? こりゃタンホイザーじゃないの?」という部分(引用?)もある。しかし、私自身はそれほどこの曲に「ワーグナーの影」みたいなものは感じない。むしろ、この後に怒濤のように生み出されていく、今日私たちが「まさにドヴォルザーク的な魅力」と感ずる香りの充満した名曲たちの「スタート地点」と位置付けたい名作と思う。ただ、こういうマイナー名曲こそ名演奏で聴かないと、曲の真価が伝わらない。幸いにもこの「第3番」には「天下一!」と叫びたくなる超名演がある。それはチェコの名匠スメターチェク(1906~1986)が1959年に録音したもの。
 
「ボヘミアの横山やすし」と呼びたい風貌のこの名匠、20世紀のチェコを代表する名指揮者の一人と私は確信しているのだが、残念ながら録音は多くなく、日本で普通に流通している録音が最晩年に遺した「わが祖国」位・・というのは寂しすぎる。ただ、この「わが祖国」はチェコ・フィルによるこの曲の録音の中でも横綱級の名演なのは救いではあるが。
そしてこの「第3番」、これまた別格と言いたい名演奏。ワイルドでエネルギッシュなのに、品格があって凛々しい。まさに離れ業である。ステレオ初期の古ぼけた録音ではあるが、そんな些末な事は聴き始めるとすぐにどうでもよくなってしまう。見てくれは悪く、盛り付けもラフなのだが、食べてみると素材の旨さが最高に引き出され、「美味い!」と叫びたくなってしまう料理。そんな感じなのだ。この盤、他にグラズノフの「サクソフォン協奏曲」とガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を収録というムチャクチャなカップリングで、しかもガーシュウィンのソリストがヤン・パネンカ!という、マニア狂喜の内容。この名指揮者の録音をもっと復活させてほしいと切望する次第。
 
ドヴォルザークの作品の魅力である「躍動感」と「推進力」。これはまさに「鉄道」の魅力とも繋がる。「元祖鉄ヲタおやぢ」ならではの名作群から、後輩鉄ヲタの私は今後もエネルギーを充填される事でありませう。
★猫丸しりいず第201回
◎ショパン:ポロネーズ集(第1番~第7番)
アルトゥール・ルービンシュタイン(P)
(国内RCA BVCC37670 ※1964年録音)
◎ペンデレツキ:ポーランド・レクイエム
クシシトフ・ペンデレツキ指揮 
       ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団・合唱団 他
(英CHANDOS CHAN9459~60)
今年1月初めの「猫丸」でチャイコフスキーの「交響曲第2番」をとりあげた際、「今年はウクライナにとって大きな転機になるかもしれない」と述べたが、それからわずかの期間で事態がこれ程に急展開するとは、私も予想していなかった。


ウクライナ情勢を報ずる欧米のニュースを見ていて非常に印象的だった事柄がある。それは、クリミア半島を実効支配する動きに出たロシアに対して、真っ先に「許さん!」という姿勢を表明したのが他ならぬポーランドだった、という事だ。ドイツとロシア(ソ連)という強国に挟まれ、繰り返し侵略を受けてきたポーランドという国の抱える「歴史」の重たさを、その時感じずにはいられなかった。

周りを海に囲まれた日本という国に住んでいると中々実感するのは難しいが、今でこそバルト三国やベラルーシ、そしてウクライナが間に挟まっているとは言え、ロシアと地続きである(そしてその地理的な条件から逃れる事の出来ない)ポーランドにとって、「ロシアの脅威」は歴史上の出来事では無く、「今、そこにある危機」なのだろう。ポーランドと同様のタイミングでロシアへの対抗姿勢を明確にしたのがラトヴィアだった事も、それを裏付けているように思う。

そして、その姿勢を真っ先に、明確に示した、というのが実にポーランドらしい。14~17世紀にかけては大王国を築き、繁栄を極めながら、18世紀以降は侵略や国土分割の繰り返しという過酷な歴史。そこから醸成されたものであろうが、とにかくポーランドの人々ほど「不屈」とか「祖国への愛」という言葉がピタリとはまる人達は他に中々思いつかない。そんな「ポーランド魂」を感じさせる名作の一つが、ご存じショパンのポロネーズだ。以前にも白状した通り、私はあまりショパンの曲を聴くのが得意では無い。全くの私の偏見であるのだが、私にとって彼の作品の多くは「シンプルなデザインでも充分映えるのに、やたらフリルとかデカい飾りのついたワンピース」みたいに思えるのだ。そんな中、「過剰な飾りが無い、キリッとしたデザインでもイケるじゃないですか、ショパンさん!」と言いたいのが「ポロネーズ」で、これは私が自発的に聴く数少ないショパンの作品である。

ショパンの肖像画を見ると、どれも何だか弱々しく感じられて「悪者度炸裂」のワーグナーとかに比べると「大丈夫なの、この人」と心配になってしまう(ジョルジュ・サンドは実際かなり手を焼いたらしいが)。でも、直球勝負!という感じの「ポロネーズ」は「何だか頼りなさげ」な彼のイメージを吹ッ飛ばし、「ショパンさん、アンタ、実は漢(おとこ)だねえ」という感慨を私に抱かせる。その決然とした真っ直ぐな音楽からは、彼の「不正を許すな! 理不尽な侵略に立ち向かえ!」という叫びが聞こえてくるようだ。無数に存在する「ポロネーズ」の録音だが、いろいろ聴いても結局「これだな」と思ってしまうのが、ルービンシュタインの豪快な名演奏。

苦難のポーランド史にまつわる作品と言えば、もう一つ外せないのが「ポーランド・レクイエム」。通常のレクイエムの形をとりながら、ナチによるポーランド蹂躙等の激動のポーランド近現代史を織り込んだ、90分以上に及ぶ大作である。このCHANDOSの作曲者自演盤のライナーノーツによれば、1980年に着手され、最終的に全曲が完成したのは13年後の1993年との事。元々は、あのワレサ議長(正しくは「ヴァウェンサ」議長らしいが)率いる自主管理労組「連帯」から委嘱された作品が出発点のようだ。1980年と言えば、「連帯」結成のキッカケとなったグダニスクの造船所でのストライキが起きた年。

この年から数年に亘る「連帯」の闘争は、ちょうど私が高校生の頃に当たり、個人的にはある種の「懐かしさ」を感ずる。ペンデレツキの作品は「ノイジーで聴きづらい」という印象をお持ちの方が多いと思うが、この作品は比較的聴きやすい。ただ、内容は非常に重たく、気楽に聞き流せる類の作品では無いのも確か。しかし、欧州の現代史に関心をお持ちの方には是非とも一度はお聴き頂きたい名作である。

それにしても、この先一体どうなるのか?ウクライナ。しばらくは目を離す事が出来そうにない。
★猫丸しりいず第200回
◎芥川也寸志「音楽を愛する人に」 (ちくま文庫/絶版)
◎芥川也寸志:エローラ交響曲、交響三章 他
 
湯浅卓雄指揮 ニュージーランド交響楽団
(NAXOS 8555975J)
「猫丸」も遂に200回目を迎える事となった。
そこで今回は200回の区切りとして、「猫丸の原点」とも言える名著をご紹介したい。
その本は、昔中学校の図書室で出会った芥川也寸志さんの「音楽を愛する人に」。ただ、絶版になって久しいようで、現状は古書でなければ入手困難なようなのが残念である。当時は今のようにインターネットなる文明の利器がある時代では無く、クラシック音楽に関する情報源はほとんど書籍や雑誌に限られていた。図書室にある音楽関連の本を片っ端から読み漁っていた私が、ある時に出会ったのがこの「音楽を愛する人に」だった。
この本は自分にとって本当に衝撃的だった。古今東西の名曲を100曲あげ、
1曲当たり見開き2ページ分の文章が載っている・・という体裁は、一見何の変哲も無い。この手のスタイルの本は、テーマになっている楽曲の成立事情なり、構造なり、特色なりを「解説」しているのが普通である。しかし、この本は違った。大体、一番最初に出てくる曲が、バッハの「管弦楽組曲」とかではなく、いきなりスクリャービンの「法悦の詩」であるのが既に尋常では無い。
100曲の中には、一応普通にその楽曲について書かれている項もあるのだが、ほとんどの項に関しては、テーマとなっている曲は「話の出発点」にすぎず、そこから自由奔放に話が拡がっていくのだ。中にはモーツァルトの「ピアノソナタK.331」のように、その曲の事には全く触れずに大作曲家たちの「死因」を延々と列挙したり・・・という爆笑モノのとんでもない項まである。この本に私が衝撃を受けたのは、直接的な意味での「解説書」としてはほとんど役に立たないのに、読み物として最高に面白い、という点であった。
しゃれっ気に満ちて、しかもムダの全く無い軽快な文章。それでいて、大正から昭和にかけての激動の時代を生きた芥川さんの音楽人生があちこちに散りばめられ、まさに一気呵成に読ませてしまう。ショスタコーヴィッチにインタビューした時のエピソードなど、貴重な証言も多い。ちなみに以前、この「猫丸」でヴァレーズの「砂漠」をとり上げた際に引用したエピソードは、この本に載っていたものである(詳しくはコチラで・・ http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/1134/)。「音楽を語るのに、こんなやり方があったのか・・・」まさに目から鱗が落ちる思いだった。音楽に関する文章を読んでこれほどの衝撃を受けた経験は、それから10年以上経って片山杜秀さん(当時は「素秀」さんだったが)の文章に接した時くらいしか、他に思い浮かばない。
ひょんな事から、この「猫丸」を書き始める事になった時、真っ先に頭に浮かんだのは、「そうだ!あの芥川さんの本の精神で書いてみよう!」という事だった。もともと自他共に許すヘソ曲りで、格調高い事が苦手な私であるから、こういうノリでなかったら200回も続けられなかったかも知れない。実はこの機に、今まで自分が書いた「猫丸」を読み返してみた。本になった第70回まではモチロン、さあ新たな一歩だ!と新鮮な気持ちで書いた第71回(http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/775/)や、先日3周年を迎えたあの大震災にまつわる第120回(http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/998/)など、ああ、こんな事もあったなあと思うものもあった。しかし、そういう個人的感慨を抜きにした時にシミジミと思うのは、「まだ自分は芥川さんの足元にも及んでいない」という事。
実は今でもこの「音楽を愛する人に」を私は折に触れて読み返すのだが、もう内容を熟知している筈なのに、その都度新鮮な気持ちで読む事が出来る。自分で文章を書いて一番難しいと思うのは、「如何に書くか」では無く、「如何に書かないか」という点。この手のエッセイはネタさえあれば、いくらでも長々と書く事が出来るが、そこをグッとこらえて「これ以上は出来ない」と思える所まで内容をそぎ落とし、文をシェイプアップしなければならないのが毎度頭を悩ませる所である。しかし、芥川さんのような「凝縮度が凄いのに軽快」という極限の境地にはまだ全然達していないようだ。
「はっはっは、猫丸君。私に追いつこうなんてまだ100年早いですよ」と芥川さんがあの穏やかな声で語りかけてくるのが聴こえるようである。芥川さん、降参です。貴方は本当に偉大です。63歳という若さ(とあえて言いたい)で亡くなってしまったのは、日本の音楽界にとって大変な損失でした。ヤマカズさんこと山田一雄さんと共に、不肖猫丸を音楽の世界に導いて下さった芥川さん。御恩は一生忘れません!
ところで、芥川さんの作品で私が最初に接した名作2曲は「交響三章」と「交響管弦楽のための音楽」。前者は1948年、後者は1950年の作品だが、いずれも終戦直後に生み出されたとは思えない位に洗練された作品。プロコフィエフやカバレフスキーを連想させるスッキリと無駄が無く、それでいて力強さも持ち合わせた逸品である。タージ・マハールと並び立つインドの素晴らしい世界遺産、エローラの遺跡を素材にした「エローラ交響曲」も一見錯綜しているようで、実は見事に整理整頓された響きが素晴らしく、ああ、こういう作品群とあの文章は同じ頭脳から生み出されたんだなあ・・という感慨に耽ってしまう。湯浅&ニュージーランド響の演奏も素晴らしく、おススメの1枚。
未だ芥川さんの足元にも及ばなくとも、せめて「くるぶし」位までには到達したい・・。そんな思いを持ちながら、猫丸の苦闘はまだまだ続く・・・・
★猫丸しりいず第199回
◎ウォルトン:ベルシャザールの饗宴
サー・アンドリュー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団・合唱団
(WARNER APEX 0927443942)
ユーモアと言えば英国人。
 
英国のユーモアの独特の面白さは、その「屈折」した感じにあると私は思う。
単純明快なギャグでは無く、一種オタク的と言うか、「わかる奴だけわかりゃいいんだよ」という感じのシュールなひねくれ加減。「モンティ・パイソン」とか「ミスター・ビーン」とかの、あの感じ。あれがたまらなく良い。
 
クラシック音楽界の一大冗談イベントとして名高い「ホフナング音楽祭」が英国生まれなのは、如何にも・・・と思える。この音楽祭のライヴは高校生の頃からの爆笑愛聴盤だ。「ホフナング音楽祭」は1956~1961年の3回に亘って開催されたものが「元祖」で、その後も開催されてはいるものの、私にとっては50年以上前の「元祖」こそが唯一、正統の「ホフナング」である。
 
クラシックの名曲のパロディが炸裂するこの音楽祭、まさに「珠玉の英国風ユーモア」の集大成という感じである。ハイドンの「驚愕」のパロディなど非常に「分かりやすい」ものも中にはあるが、その多くはかなりクラシック音楽に詳しくなければ笑い飛ばせない、ハイ・ブロウなもの。笑うためにもかなりの「教養」(笑)が要求される代物である。その音楽祭の1961年の第3回のライヴの中に、ウォルトンの名作「ベルシャザールの饗宴」の「抜粋」というプログラムがある。しかも指揮は作曲者自身!! ところが演奏時間を見ると何と2分弱! 「抜粋」とは言え、これはどういう事か?
 
早速聴き始めるが、まずホールの総支配人のアナウンスが長々と入り、続いて聴衆の拍手に導かれてウォルトン登場。ここまでで既に1分以上経過。
まさか・・と悪い予感と不穏な空気(笑)が漂い始め・・。ここから先は「ネタバレ」になってしまって申し訳無いが・・。その「抜粋」は何と「ジャン!」という一音だけ!。一瞬呆気にとられる聴衆。続いて大爆笑と大拍手。茶目っ気たっぷりにステージの袖に引っ込んでいくウォルトンの姿が目に浮かぶようで、
思わず笑いを誘われる。それにしても、このたった1音を出すために大編成のオケと合唱がキチンと舞台に乗っていたのだろうから、まあ大したものだ。
「ミスター・ビーン」なんかもそうだが、英国人の笑いに対する「本気度」は凄い。「ま、この辺でイイヤ」みたいな中途半端な妥協を許さず、徹底的にやってしまう。その精神は、以前当「猫丸」でとりあげたドリフターズにも通じるものがあって(詳しくはコチラで・・ http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/557/)、お笑い好きの不肖猫丸としては、英国人に大いに敬意を表したい。
 
この当時、ウォルトンは英国で無く、既にイタリアの島に移住していた筈なので、恐らくはわざわざこの「1音」のためにロンドンまでやって来たわけだ。この大家を呼んだ奴も奴なら、呼ばれる方も呼ばれる方。もう尊敬する他無い。大作曲家ではあるが、何となく「孤高度」の高いブリテンとかティペットでは無く、ウォルトンに「ホフナングの白羽の矢」が立ったのも、彼のそういうキャラがあっての事だろうか。ちなみにこの「ベルシャザールの饗宴」は、聖書に出てくるバビロニア王ベルシャザールの話を素材とした合唱曲。ユダヤ人を捕虜にしたベルシャザール王が、酒宴で調子に乗ってユダヤの神を冒涜し、天誅が下って死んでしまう・・という有名な話だが、題材から想像されるような重厚長大な感じはこの曲には無い。この作曲家らしい弾ける様なリズム、爽快な音楽運びに溢れた快作である。

今回ご紹介のA・デイヴィス盤は1994年のライヴで、実にノリの良い快演。カップリングが同じく旧約聖書モノのヴォーン=ウィリアムズのシブい名曲「ヨブ」であるのもポイント高い。デイヴィスはその「とっちゃん坊や」的な風貌で損をしている?感もあるが、間違いなく英国を代表する名指揮者の一人。若い頃トロント響を振って録音したボロディンの「交響曲第2番」(SONY)以来、彼の録音は好んで聴いているが、中でもBB C響を振ってTELDECに録音した数多くの英国音楽は高水準の名演揃い。もっと正当に評価されても良い名匠!!
★猫丸しりいず第198回
◎サティ:梨の形をした3つの小品
アルド・チッコリーニ(P)
(海外EMI 6483612 ※5枚組/ピアノ作品集/限定盤)
唐突ではあるが、皆様お馴染みの「菱型(ひしがた◆)」。
なぜこれを「菱型」と言うのだろうか?
『決まってるじゃないか、「菱の形」に似てるからでしょ』と言う声が多数聞こえてきそうだが・・。『その「菱」ってどんな形?』という問いかけをもししたとしたら、「ウ~ン・・ わからん。見た事無い」という方が(多分)大多数だろう。
実は私も「菱」の実物は一度しか見た事が無い。中国・浙江省の紹興(あの「紹興酒」で有名な)から上海へ向かう特急列車(だったと記憶している)に乗った時の事、向かいの席のオバちゃんが持参の袋から何やら忍者の手裏剣(しゅりけん)のような形の奇ッ怪な物体を取り出し、それを歯でカチ割って食べ始めたのである。私が「何じゃコリャ」と目を丸くして見つめているのに気付いたか、そのオバちゃんは私にその物体を「食べてみろ」と差し出してきた。その超固い皮の中には白っぽい実が入っていて、食べてみると栗の実をワイルドにしたような味わいで中々美味い。その時はそれが何者だか調べるすべが無かったが、帰国後いろいろ調べてみるとその奇怪な物体こそが「菱の実」であった。
「菱の実」は中国南部や東アジア(日本も含む)に分布する水草で、薬膳料理の素材にもなっているのだそうだが、あの超固い実の形が「菱型」に似ているかと言われると、若干微妙ではある。実際、「菱型」の語源は「菱の葉」「菱の実」のどちらに起因しているのかは説が分かれているようなのだ。そうすると「菱の形」って結局どんな形? 謎は深まる・・。
またまた唐突ではあるが、続いて「梨の形」である。「梨」と言えば、何と言ってもエリック・サティ(1866~1925)の「梨の形をした3つの小品」。「梨の形」って一体・・・。なぜ「リンゴの形」ではないのか・・。まあ、おフランスであるから、「梨」と言っても断じて松戸名物「ニ十世紀梨」では無く、洋梨であろう。「ふなっしー」では無い事はモチロンだなっしー(と、千葉県民丸出し発言)。大体「3つの小品」なのに7つの部分から出来ているのも奇妙である。
この曲モチロン「梨の形を描写」した作品では無い。サティが、同世代のドビュッシーに「お前、たまには形式にこだわった作品を作ってみろよ」と忠告(と言うか、余計なおせっかいという気もするが)されて、「ホレ!これでどうだ!」と書いた曲なんだとか。ちなみに「梨」というコトバには「間抜け」「阿呆」という隠された意味があるそうで(フランス限定か?)、「あんまり形、形ってウルサイから梨の形で書いたけど何か?」という反骨皮肉おやじのサティならではの作曲経緯と曲名なのであった。
この手のブラックなユーモアは英国人の専売特許と思っていたが、どうもそうでは無いらしい。実際に聴いてみると、実にサティらしい人を喰ったようなシニカルな楽想とサロン風の優美な楽想がグチャグチャに混在し、まさに「サティ的」としか形容しようのない佳作である。サティという人の凄さは作曲家として並外れたセンスと能力を持っていながら、「アウトロー」的な姿勢を決して崩さず、しかも「普通」に楽しめ、同世代や後世の音楽家(いわゆる「クラシック」に留まらない範囲の)に絶大な影響を与える作品を多々遺した点にあると思う。この人がいなかったらその後の音楽史はどうなっていたか・・・と思わせる「キーマン」とも言える作曲家が何人かいるが、サティは間違いなくその一人。
この「梨の形」をはじめ、サティと言えば私にとってはまず高橋アキ。あの印象的な「鯛焼きジャケット」の「夢見る魚」をはじめ、日本におけるサティ受容に絶大な役割を果たしたアキ姐さんのサティ録音が、何と現在ほぼ廃盤らしいのは残念としか言いようがない。そこで「王道」盤のチッコリーニ。この巨匠に関しては何ら説明不要と思うが、私もラヴェル、サンサーンス、セヴラック等々、昔からこの人の録音には大層お世話になっている。このサティも「永遠の定番」と言える名演で万人におススメ出来る。でも忘れがたいアキ姐さんの「梨の形」は是非復活させてほしい・・・
★猫丸しりいず第197回
 
◎チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
        (VIRGINCLASSICS 61124)
 
◎ブラームス:交響曲全集
       (国内EMI/VIRGIN TOCE16126~9 ※限定盤)

クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ヒューストン交響楽団
 
 
前回はアメリカ国歌がネタであったが、皆様が「アメリカ合衆国」と聞いて最初に頭に浮かぶモノは一体何であろうか?
 
「自由の女神」? 「グランド・キャニオン」? 「ホワイトハウス」?
それらも確かにアメリカの「象徴」ではあろう。ただ、私は思う。かなりの日本の人々の「心の深層」にある「アメリカ的なイメージ」を喚起する場所。それは「テキサス」ではないかと。
 
広大な乾いた大地。サボテン。カウボーイと農場。そういうどこか「西部劇」っぽい雰囲気は、間違いなくアメリカの象徴的なイメージの一つだろう。そう言えば「オバケのQ太郎」のアメリカオバケ「ドロンパ」も、「キン肉マン」の「テリーマン」もテキサス出身という設定になっていたっけ。日本の2倍近い広大な面積のテキサス州だが、日本で馴染みのあるテキサスのオーケストラと言えば、ドラティやマータとの録音で知られるダラス交響楽団、そしてヒューストン交響楽団の2つであろう。
 
そのヒューストン響は1913年創立で、昨年100周年を迎えた歴史あるオケ。私とこの楽団との出会いはストコフスキーの指揮したステレオ初期のキャピトル音源盤だが、歴代の指揮者を見てみると、そのストコ先生の他にクルツ、フリッチャイ、バルビローリ、プレヴィン、コミッショーナ等々、中々豪華な顔ぶれが並ぶ。ただ、私見では、このオケの最良の時期はエッシェンバッハが音楽監督を務めた1990年代だと思う。
 
エッシェンバッハは、私と同世代以上のクラシック音楽リスナーには未だ「ピアニスト」としてのイメージが強いように思うが、彼が音楽家を志したキッカケは少年の時に聴いたフルトヴェングラーだそうで、元々彼は指揮者を目指して音楽の道に入ったとの事。キャリア当初のピアニストとしての名声も、彼にとっては指揮者の道への通過点に過ぎなかったのだろう。近年フィラデルフィア管、パリ管、北ドイツ放送響等の世界のトップ・オケのシェフをかけもちする程の超売れっ子指揮者になったのは、彼にとってはまさに満願成就でオメデタイという他ないが、私にとっては上記のような超有名オケとのものより、ヒューストン響を振ってVIRGINやRCA等々のレーベルに残した録音の方がもっと指揮者エッシェンバッハの姿勢が徹底されていて、ずっと面白く感じられる。
 
彼の前任者が、既に当猫丸でもご登場頂いた名オーケストラ・ビルダーの名匠コミッショーナ(詳しくはコチラで http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/987/)だった事は、エッシェンバッハにとっては誠にラッキーだったと言えるだろう。コミッショーナに鍛えられたオケの力量にエッシェンバッハは全幅の信頼を寄せ、実に丁寧な演奏をやってのける。例えば今回ご紹介のチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」。この曲、実にオケが鳴りまくる作品で、そのせいか勢い任せの粗い演奏が多く、正直あまり「名曲」と私は感じていなかったのだが、このエッシェンバッハ盤を聴いて認識を改めさせられた。「弾きとばし」の無い、「入念」の一言に尽きる演奏で、全ての部分に指揮者の意志が感じられ、しかもダイナミックな迫力にも欠けていない。この盤のメインの「新世界交響曲」も同じ傾向の素晴らしい演奏で、大いに感心させられる。
 
更に驚愕モノだったのが、このコンビの代表盤と言って良いブラームス。
「テキサス」と「ブラームス」はまさにイメージの乖離が甚だしく、私も当初は「珍演」を半ば期待して聴き始めたのだが・・・。「第1番」を聴き終わって思わずヒューストン方面に向かって「参りました! スミマセンでした!」と頭を下げたい気持ちになった。演奏者名を伏せて、この演奏を聴かせて、これが「テキサスのブラームス」だと見抜ける人が果たしているだろうか。
余程リハーサルを入念にやったのだろう。曲の隅々までが徹底的に構築され、あいまいな部分がまるで無く、ブラームスらしい重厚さも充分だ。こういう演奏は、えてして「木を見て森を見ず」的な息苦しい演奏に陥りがちだが、オケの明るめの音色が丁度良いバランスをもたらしていて、入念・重厚でありながら窮屈な感じの無い快演に仕上がっている。
 
「大学祝典序曲」や「交響曲第2番」での、テューバの猛烈な張り切りぶり(俺、ここしか出番無いんだから目立たせろよ、という奏者の声が聞こえてきそう)には、ああ、やっぱりアメリカのオケだなあとニヤリとさせられるが、
2~4番も「第1番」と同様の入魂の名演で、数多いブラームスの交響曲全集の中で、この盤が全く歯牙にもかけられない存在に甘んじているのは実に惜しいと思わせる。「アメリカ」を象徴する大地から生まれた?名コンビの名演奏。一度先入観を捨てて聴いてみませんか?「テキサスのブラームス」。世の中には「隠れ名盤」まだまだアリ!!
★猫丸しりいず第196回
◎スーザ:星条旗よ永遠なれ
◎スミス:星条旗(アメリカ合衆国国歌)
 
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮 シカゴ交響楽団・合唱団
(タワーレコード/DECCA PROA183)
 
アメリカ合衆国の国歌「星条旗」と言えば、フランスの「ラ・マルセイエーズ」と並ぶ、世界で最も有名な国歌。この曲を聴くと、つい頭に浮かぶ人がいる。それは、一昨年謎の急死をしたアメリカの人気歌手、ホイットニー・ヒューストン。
 
ちょうど2年前の2012年2月、彼女の死を報ずる米ABCテレビのニュースを見ていたら、この「星条旗」が話題になっていたのだ。アメリカでは大きなスポーツイベント等では、有名歌手が招かれて「星条旗」を歌う事が非常に多い。ところがこの「星条旗」は中々の難曲で、ビッグネームの人気歌手ですら「大失敗」を犯すケースが少なくないのだそうだ。その原因は、この曲の「意外な程の音域の広さ」にある。
 
この「星条旗」、一聴したところではそんな難物には思われないし、それほど音程の跳躍があるようにも思えない。しかし、歌ってみると分かるが、この曲は前半の部分に比べ後半の部分の音域が非常に高いのである。しかも結びの部分が一番高い音域になっていて、そこをキレイにキメないと
一気に締まりが無くなってしまうのだ。ABCニュースでは、「事故発生」のほぼ全ての原因が、無伴奏でこの曲を歌う際に、歌い出しの部分の音程を高く設定しすぎた結果、後半の高音域が歌えなくなってしまう事にあると言っていた。
 
では「星条旗」を最も完璧に歌った人が誰であったか。その人こそが、亡くなったホイットニー・ヒューストンだと言うのである。興味津々で彼女の「星条旗」を聴くと、確かに群を抜いた素晴らしさだった。全ての音域に亘って全く表現力にムラが無い。改めて彼女の実力を再認識すると共に、こういう「追悼」のやり方もあるのだなあと妙に感心してしまった。
 
この超有名国歌「星条旗」をそれでは誰が作曲したのか・・。これが意外に知られていない。昔周囲の友人たちにこの質問をしてみたところ、かなりの確率で「エッ? スーザじゃないの?」という答えが・・・。実際、アメリカ国歌と「星条旗よ永遠なれ」は世間ではかなり混同されているようなのである。実はこの「星条旗」、もともとは英国生まれの曲。ジョン・スタフォード・スミスという作曲家によって1760年代に作られた「天国のアナクレオンへ」という歌が原曲で、その旋律に20世紀になってから現行の歌詞を乗っけたのが「星条旗」。つまりアメリカ合衆国国歌は「世界一有名な替え歌」という事になる。しかも原曲の「天国のアナクレオンへ」は大酒飲みを歌った「お下劣酒飲みソング」だったというから最高だ。この名国歌が元々はモーツァルトの時代に生まれたお下劣ソングだったなんて・・・。しかもそれをパクってよりによって国歌にして朗々と歌うアメリカ人、恐るべし。
ちなみにスーザの「永遠なれ」の方は1896年の作品。つまりブルックナーの「交響曲第9番」と同い年という事になる。
 
この2曲をショルティ&シカゴが演奏した盤が今回ご紹介の一枚。ただこの盤、メインはデル・トレディチの「ファイナル・アリス」で、「星条旗」はほんのオマケの如くくっついているだけなのでご注意を。両曲ともこのコンビらしい完璧無比な演奏。「永遠なれ」の方はバーンスタイン&ニューヨーク・フィルや小澤&ボストンも録音しているが、恐らくは彼らも真っ青の凄さである。「ここまでコワモテでやらんでも」と苦笑してしまう程だ。この盤がタワーレコードの企画盤として復活する時、元々は一緒に録音された地元シカゴのNFLのチーム、シカゴ・ベアーズの応援歌も収録される予定だったが、権利関係がクリア出来ずに外されてしまったのは誠に残念。まあ、アメリカという国はその手の権利関係にはことのほかキビシイ所らしいので、仕方ないとも思える。でもその国の国歌は18世紀英国のお下劣ソングの替え歌とは・・・
 
ああ、謎の国アメリカ。
★猫丸しりいず第195回
 
◎スヴェンセン:交響曲第1番・第2番
 
 アリ・ラシライネン指揮 ノルウェー放送管弦楽団
(WARNER APEX  0927406212

 
大きな声では言えないが(いや、言っても良いのだが)、「キャプテンC」が結構好きである。
 
しかし・・ 当店ブログをご覧頂いている親愛なる皆様の中で「キャプテンC」をご存じの方は恐らく皆無に近い、と思われる(万一ご存じの方がおられたら、多分私と同じ千葉県民であろう)。「キャプテンC」とは一体何者か??
 
彼は千葉テレビの番組から生まれた「ご当地ヒーロー」(正確には「キャプテン☆C」)。ゴレンジャー風の外見で、コスチュームが千葉を象徴する青(海)と黄(菜の花)というのがローカル風味炸裂。彼の任務は「世界征服を企む悪の秘密結社から地球を守る」などという大仰なものでは無い。街角に突然出現し、「バスや電車ではお年寄りや妊婦に席を譲ろう」とか「ゴミのポイ捨てはダメ」とかの公衆道徳を説いて回る、まるで1970年代教育テレビ風の庶民派ヒーローなのだ。
 
この「キャプテンC」、制作者も予想しなかった程の大人気となってしまい、今や千葉県各地(千葉、柏、市原など)でイベントやショーを開催すると、親子連れ数百人から、多い時には2,000人!が集まるというから凄い。その人気の秘密は、彼の、ただの「カッコ良いヒーロー」ではない、お茶目な一面を持った「ゆるキャラ」ならぬ「ゆるヒーロー」というコンセプトにあるのでは・・・との事。ちなみに「キャプテンC」の敵として登場する悪役キャラ「ダスターD」も、あの「ばいきんまん」に比肩し得る誠に愛すべき「ゆる悪役」だし、京成バスや千葉都市モノレール等の地元丸出しのロケ地といい、何ら必然性の無い戦闘シーンといい、脱力ポイント満載なのだが、世の中全体にギスギス感が漂う中ではこういう「ユルさ」が求められているのかもしれない。
 
ならば、クラシック界のキャプテンC、「ゆるキャラ」「ゆるヒーロー」に対抗しうる「ゆる交響曲」があっても良いではないか。決してコワモテにならず、素朴で、あまりの素朴さ加減にある種の気恥ずかしささえ感じてしまうが、でもやっぱり「名曲だ」と納得させてくれる。そんな交響曲を当猫丸としては「ゆる交響曲」と定義したい。
 
「ゆる交響曲」の代表選手は何と言ってもカリンニコフの2曲だろう。ウェーバーの「交響曲第1番」もかなりユルい。ただ、これらの曲は今やそれなりに知られているので、今回は知られざる北欧の「ゆる交響曲」、ノルウェーの作曲家スヴェンセン(1840~1911)の2曲の交響曲をご紹介したい。チャイコフスキーと同い年のこの作曲家、グリーグの親友だったそうだが、ビッグネームのグリーグに比べると、2曲の交響曲の他は「パリの謝肉祭」等が辛うじて(私のような北欧楽曲マニアに)知られているという程度にとどまっている。
 
彼の2曲の交響曲、特に「第1番」はあまりに素朴、純朴で「翳り」みたいなものがまるでなく、同じ「交響曲」というタイトルをまといながらマーラーの「10番」とかブルックナーの「9番」等の「彼岸が見えてます」系の交響曲とは対極といって良い世界に位置している。その屈託の無さに、私のような「不純なオヂサン」は逆に一瞬たじろいでしまう程だ。確かにこの2曲に対して「単純すぎる」とか「深みが足りない」とかの批判を浴びせる事は容易だろうが、「第2番」のあまりに「おおらか」なたたずまいに接すると、まさに「童心にかえる」ような、ムズカシイ理屈をこねくり回す前に音楽そのものの楽しさに身を任せてみてはどうなの、という天の声を聞くような気持になるのは確か。実際、グリーグは親友スヴェンセンの交響曲を聴いて、自作のハ短調の交響曲を「発表するに値せず」と封印してしまったのだそうだ。そのグリーグの交響曲は今では数種の録音が出ていて、個人的にはそんな「駄作」とは思えないのだが、確かにスヴェンセンの2曲に比べると「吹っ切れた」感じは薄く、どこか煮え切らない印象は確かに残る。もしグリーグが「真にノルウェー的な交響曲」を目指していたのだとしたら、スヴェンセンの交響曲を聴いて「参った!!」と感じた事は何だか理解出来る。
 
さてこの2曲の録音だが、やはりほとんどは北欧系の演奏家によっている。珍しくもメジャーレーベル(EMI)から出たヤンソンス&オスロ・フィルが廃盤なのは惜しいが、今回ご紹介の盤(FINLANDIA音源)も「ご当地」のオケによるもの。私はこのラシライネン&ノルウェー放送管のコンビの録音は、他にシンディングの交響曲等も愛聴している。このオケ、放送オケらしい機能美には乏しく、良くも悪くも豪快で粗削りな演奏を聴かせる事が多いが、そんな彼らの特色はこの「ゆる交響曲」には良くあっている。「最近血のめぐりが悪い」「肩凝りがヒドイ」とお悩みのアナタ、是非「ゆる交響曲」を聴いて、思い切り「脱力」してみては如何でしょうか?
 
★猫丸しりいず第194回
 
◎プッチーニ:電気ショック、カンタータ「戦の音を止めよ」 他
 
リッカルド・シャイー指揮 ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ管弦楽団&合唱団
(独DECCA 475320-2 ※「プッチーニ・ディスカヴァリーズ」)
 
プッチーニ(1858~1924)は、遺した作品の数は少ないものの、主要作の多くがコンスタントに演奏・録音され続けている「高打率」に恵まれた作曲家。
 
ただ、彼は何となく「オペラ専業」みたいなイメージが強すぎて、それ以外のジャンルの作品が(「菊」等の少数の例外を除いて)まるで無視されている感が強いのは惜しい。そんなプッチーニの珍曲ばかりを集めたのが「プッチーニ・ディスカヴァリーズ」。この手の珍曲集は資料的価値以上のモノが感じられない品もあるが、この盤に収められた作品には「よくぞ発掘してくれました!」と言いたくなる隠れ名曲が多い。
 
中でも気に入ったのが「電気ショック」。何たってタイトルが最高だ。演奏時間2分弱の吹奏楽のためのマーチである。 
この曲は1896年の作品 「ラ・ボエーム」と同い年という事になるが、イタリア電報協会からのヴォルタ電池100年記念の委嘱作だそうだ。「ヴォルタの電池」なんてコトバを聞くのは高校生の時以来で懐かしいが、これを考えたアレサンドロ・ヴォルタはイタリア北部コモの出身の人だそうで、電圧の単位「ボルト」は彼の名前に由来しているんだとか。
 
プッチーニの曲と言えば、「私のお父さん」や「ある晴れた日」に象徴される
美しいメロディーがユッタリと流れて・・・というイメージが強いのだが、この「電気ショック」はオヤ?と思うくらい軽快で歯切れ良く、イタリアらしいスカッとした明るい味わいに満ちている。実際に演奏される機会の有無に関しては寡聞にして全く分からないが、「珍曲」になっているのが惜しい名作。この盤にはマーチがもう一曲、「シチリアの艦隊」という作品が収録されているが、これも中々良い。
 
次に面白かったのが、カンタータ「戦の音を止めよ」。この曲は1877年の作曲らしく、プッチーニが一連のオペラ作品を生み出す前の初期作品という事になる。このカンタータ、タイトルと裏腹に勇壮で「血沸き肉躍る系」の作品となっており、「ヴェルディか?コリャ」と思ってしまう程だ(実際、何の予備知識も無しにこの曲を聴いて作曲者を当てられる人はほとんどいないのでは・・・)。ちなみに、他に収められた合唱曲「ローマへの讃歌」「聖パオリーノのためのモテット」もヴェルディ系の朗々たる作品で、あのプッチーニがこんな曲を・・・と思わせる。しかもどれもが中々の名作だ。
 
そして、このアルバムの最後を飾るのが「トゥーランドット」のベリオ補筆版(リュウの死の場面以降の補筆部分のみの収録)。これまた実に面白い。耳慣れたアルファーノによる補筆版が、アルファーノのカラーが前面に出たコッテリ厚塗りという趣きなのに対し、現代イタリアを代表する作曲家の一人であるベリオ(1925~2003)によるそれは何だかヒンヤリとした感触。ベリオにはマーラー等をネタにした「シンフォニア」、シューベルトの未完の交響曲の断章を素材にした「レンダリング」等の作品もあるが、いずれも先輩作曲家の作品をあくまで「素材」として突き放して扱い、結果いかにもベリオらしい曲に仕立ててしまうのがこの人らしい。カラフがトゥーランドットに求愛する場面は、アルファーノ版が「瞳炎上中の星飛雄馬」みたいな勢いで迫っていくのに対し、ベリオ版は同じ素材を用いながら「カラフさん、そんなんで大丈夫ですか」と心配になるほど「冷静」。そしてアルファーノ版の、あの「ド派手豪華絢爛」の幕切れと正反対の静かに消え入るようなエンディングも印象的。一聴の価値、充分にアリだ。
 
多大な手間とコストを要する割に、商業的にはペイしそうもないこの手の企画だが、その意義はやっぱり大きい。厳しい経済環境の中でもこういう「志」が感じられる仕事を絶やさないでほしいと切に思う。さあ、もう一度聴いてみるか、「電気ショック!!!」。
★猫丸しりいず第193回
 
◎山田耕筰:長唄交響曲「鶴亀」
 東温宮田哲男(長唄) 東温味見亨(三味線)他
 湯浅卓雄指揮 東京都交響楽団
(NAXOS 8557971J)
 
◎「市丸のすべて」 市丸(唄)
 (日本伝統文化振興財団 VZCG533)
 
大きな声では言えないが(いや、言っても良いのだが)市丸さんが結構好きである。
 
いや、「結構」というレヴェルでは無い。実は私は小学生の頃以来の市丸姐さんファンである。
と一人でコーフンしたところで「いちまるさんって誰?」と思われる方が大多数と思われるので、まずは彼女のプロフィールのご紹介から・・・
 
市丸(1906~1997)さんは信州松本の出身。松本の奥座敷、浅間温泉で芸者としてデビューしたが、その後上京。浅草でその美貌と美声から超売れっ子芸者となり、ビクターにスカウトされて1931年に歌手デビュー。以後60年以上に亘り、90歳で天寿を全うするまで
活躍し続けた・・・という昭和の大歌手である。
 
私は子供の頃、自宅にあったレコードでたまたま市丸姐さんの唄(あえて「歌」でなく「唄」と書きたい)を聴いて、一発で魅せられてしまった。小唄や長唄で鍛え抜かれた彼女の美声と節回しはまさに「絶妙」の一言。実に「粋(いき)」であり、肉感的なセクシーさとは全く違った清楚な「お色気」の漂う彼女の唄を聴くと、この人が昭和の旦那衆の憧れの的の大スターだったというのがうなずける。更に凄いのが、和洋ハイブリッドという感じの曲(純邦楽ポップスとでも呼べばよいか)で彼女が見せる適応力の凄さ。伝統芸能の良さを完全にキープしたまま、ポップなノリを見事に両立させているのはアッパレだ(「三味線ブギウギ」を是非お聴き頂きたい)。
 
そして市丸姐さんの素敵な唄を聴いてしみじみ思うのは、日本で生まれ、日本の文化の中で育ちながら、自分は普段あまりに日本の伝統芸に対して冷たく接していないか・・という事。以前北京で京劇を観た時、観客は外国人観光客とお年寄りばかりで若い年齢層の地元客が全然見当たらず、「こんな凄い芸をなぜ若い人は見に来ないのか」と残念に思った事があったのだが、「じゃあ、お前は歌舞伎や能を日本で観に行っているのか」と反撃されたら「スミマセンでした」としか言えないのが実態。自国の伝統文化に縁遠い人が多いというのは、今日では世界共通の事柄なのかも知れない。
 
そこで、純邦楽と西洋のオーケストラのハイブリッド曲、という凄まじい怪作を今回はご紹介したい。それが「長唄交響曲 鶴亀」。山田耕筰の1934年の作品である。純邦楽の楽器をオーケストラと共演させた作品は、あの「ノヴェンバー・ステップス」を筆頭に珍しいものでは無い。この「鶴亀」の何が凄いかと言えば、単に「純邦楽の楽器を用いた」という次元では無く、「鶴亀」という長唄の名作と西洋のオーケストラを「並列・並進」させた作品と言う点に尽きるだろう。
 
この曲は「鶴は千年、亀は万年」で知られる長唄の名曲「鶴亀」をそのまま演奏させ、そのバックで2管編成のオーケストラが彩りを添える・・という、ある意味かなりアナーキーな構造の作品。最初はそのシュールな響きにア然とするのだが、聴き進む内に長唄の素晴らしさにどんどん引き込まれてしまう。何しろこのNAXOS盤、長唄の演奏陣が超一流。唄方の東温宮田哲男(現・3代目貴音三郎助)は人間国宝。素晴らしいのも道理である。
ただ・・この「鶴亀」、オーケストラはひたすら長唄の「背景」という感じに終始していて、長唄と対峙して自らの存在感を示す、という箇所がほとんど無い(ショパンのピアノ協奏曲を連想してしまう)。結果、何だか長唄が乱入したムード・ミュージックという趣きの怪作となってしまった感がある。まあ山田耕筰にはハナから長唄とオーケストラを「対決」させようという狙いは無かったのだろうし、これはこれで彼の「回答」なのだろうが、もう少し仕掛けてくれても良かったのに・・・という不満は残る。
 
しかし、この曲(そしてこのNAXOS盤)が無ければ自分は長唄の素晴らしさに正面から向かい合う機会は無かったかもしれず、そういう意味ではこの「鶴亀」に感謝している。ちなみに山田は「鶴亀」の前に「越後獅子」や「吾妻八景」を素材とした同様の「長唄交響曲」を発表しているらしいが、残念ながら楽譜は失われているとの事。 色々難癖をつけてしまったものの、この曲、猫丸的には欧米で日本のオーケストラが公演する際に是非とり上げて欲しいと感ずる作品(コスト的に困難なのは承知の上)。私が京劇やガムランやヴェトナム・ハノイの「水上人形劇」の音楽に受けたような絶大のインパクトを欧米の聴き手に与える事必至の作品であるし・・。
★猫丸しりいず第192回
 
◎ベートーヴェン:ロンド・ア・カプリッチョ ト長調 Op.129 「失くした小銭への怒り」
 
 仲道郁代(P)
(国内ARIOLA JAPAN BVCC34101)

 
先日新聞を読んでいたら、アンケートの結果として70%以上の人が「景気の回復」を実感出来ていないという記事が目についた。
 
実際、一握りの富裕層以外の一般庶民はそれこそ百円、十円単位で支出を切り詰め、日々の家計のやりくりに涙ぐましい努力を続けざるを得ないのが実態だろう。増税も控えているし、この状況がそう簡単に好転するようには思えない。
 
では「至高の芸術」を日夜追及していた我らが愛する大作曲家の皆々様は、そんな生臭い世界と無縁の境地にいたのかと言えば全くそんな事は無く、作曲家たちの伝記やエピソードを読めば、作曲に対する報酬が少なかったといって落胆したり激怒したり・・・という実に「セコイ」というか「人間臭い」オハナシに満ち溢れていて、思わずニヤリとさせられてしまう。
 
そこで「失くした小銭への怒り」。
 
「第9」や「荘厳ミサ」よりも後の作品番号が付いているが、これはベートーヴェンの死後に出版されたからで、晩年に作曲された訳ではなく、実際には20代に書かれた初期の作品であるらしい。「失くした小銭への怒り」というこの上なく小市民的な爆笑タイトルは、「皇帝」や「幽霊」同様に他の人が勝手につけたもので、ベートーヴェン自身の命名では無い。作曲者自らは、この曲を「奇想曲的ハンガリー風ロンド」と名付けている。曲名だけでピンと来なくても、実際に曲を聴けば「ああ、この曲か」と思われる方がきっと多いであろう軽快でどこかコミカルな作品だ。
 
私自身はこの曲を聴いてもあまり「小銭失くした当事者が怒り心頭」的な雰囲気は感じない。むしろ、小銭を落としてアタフタと部屋の片隅を引っ掻き回して探している人を、「オ~イ、大丈夫か~」と茶化しているような、多少意地悪な「外からの視線」を感じてしまう。
なぜよりによってこの曲にそんなタイトルが付いたのかという経緯は、諸説あってハッキリしないが、頑固者でカンシャク持ち、その上、お金にまつわるエピソードが豊富・・というベートーヴェンのキャラクターにも起因しているのでは・・・とは想像出来る。
 
中でもあの「第9交響曲」を巡っては、初演の時の収入が期待していたより全然少なくてガッカリしたとか、この曲を献呈した皇帝フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世から返礼として贈られた指環が、鑑定したら「安物」だったと知って怒り狂ったとか(この手の逸話の常として、どこまでがホントの話なのかは不明)の「傑作エピソード」が多い。「返礼の指環」の一件はあまりのセコさに「ベートーヴェンさん、そういう問題じゃないでしょう」と声を掛けてしまいたくなる程だが、その一方で、「ああこういうノリの男だったから、余人の及ばないアグレッシブな名曲を多々遺せたのか」と親近感が湧いて来るのも事実。ともあれ、いじり甲斐のある男、それがベートーヴェン。
 
この曲には意外な程多くの録音があるが、最近聴いていいなと思ったのが仲道盤。5番~7番のソナタが入った盤の「オマケ」みたいな形で入っているので思い切り目立たない存在ではあるが。童顔で年齢不祥な雰囲気漂う仲道さんだが、実は私とほぼ同い年なので(失礼! 聞かなかった事にして下さい/笑)今や日本のピアノ界を背負うベテラン中軸選手。キャリアの蓄積を感じさせる丁寧ながらしっかりした演奏。なんだかんだ言ってもヤッパリこの曲、ベートーヴェンの名作だな、と思わせる名演ですよ。
 
★猫丸しりいず第191回
 
◎チャイコフスキー:交響曲第2番
 
クラウディオ・アバド指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
(DG/タワーレコード PROA129 ※廃盤)
 
新春早々、「唐突猫丸クイズ」を一発。
「キエフ」「オデッサ」「チェルノブイリ」。これらの街がある国は一体どこでしょうか?
 
エッ?「ソ連」? あの・・・・ 一体ソ連が消滅して何年たったと思ってるんですか。
「ロシア」? ウ~ン、ありがちな間違いですね・・・
正解は「ウクライナ」。
 
「元ソ連」の国々の中でも、バルト三国や中央アジアの国々が既に独自の存在感を放っているのに比べると、確かにウクライナという国はまだ「ソ連風」なイメージを引きずっているように感ずる。ヨーロッパとロシアの中間に位置する地理的な条件もあって、ソ連崩壊後もヨーロッパ側につくか、ロシア側につくかで永らく政治的な綱引きが続いており、最近もEUとの連合協定締結を見送った政権に抗議する大規模デモが首都キエフのど真ん中で発生し、世界中で大きく報道された事は記憶に新しい。
 
しかし、ウクライナという国の文化的な側面での存在感の大きさは、あまり知られてはいないが中々侮れない。例えば、旧ソ連エリア出身のピアニストの中で、ウクライナの生まれの人を列挙すると、ホロヴィッツ、リヒテル、ギレリス、グリンベルク、チェルカスキー等々、超豪華メンバー。文化遺産的な見所も多い上、日本国籍の人は短期の観光であればノービザで入国でき、ロシアのように面倒臭いビザ申請手続きも必要ない。もっと日本でも観光地として注目されても良いように思うが、残念ながらまだそうはなっていないようだ。余談だが、一般的にはロシア料理と認識されている「ボルシチ」も、実はウクライナが発祥である。
 
さて、ウクライナにちなんだクラシック音楽作品と言えば、何をおいてもチャイコフスキーの「交響曲第2番」。かつてのソ連時代、この曲は「小ロシア」というタイトルで知られていた。しかし、ソ連崩壊後、この「小ロシア」という呼称は蔑称である・・という見地から、今日では「ウクライナ」という愛称に替わっているようだ(ただ、「ウクライナ」という呼び名が定着しているようには思えないが)。
 
1872年、30代前半だったチャイコフスキーが書いた作品。終楽章にウクライナの民謡「鶴」が用いられている事がこの呼称を生んだようだが、作曲者自身による命名では無い。この曲、チャイコフスキーの作品にいつも付きまとう「どんよりどよどよ」感が稀薄で、彼の作品の中でも珍しい位、明快でパリッと乾いた感じに仕上がっている。ただ、現在普通に演奏されるのは、初演の10年近い後に作曲者が大きく改訂した版(彼は初稿を「未熟」と考え、出版を許さなかった)。初稿による録音はシャンドスから出ているサイモン指揮ロンドン響が唯一のものだが、第2楽章以外は現行(改訂)版と相当に違っている。端的に言って、初稿版は相当にクドイ。
 
中でも終楽章は現行版でも「鶴のテーマ狂喜乱舞」という感じのクドイ曲だが、初稿版はそれを更に「大盛り」にしたような感じ。個人的にはかなり「胸焼け」感が残る。シャンドス盤の演奏は実に正攻法なので、かえって「大盛り」感が助長される結果となってしまっている。この初稿版は例えば1970年代のモスクワ放送響をロジェストヴェンスキーやカヒッゼが振った演奏のように、ヤケッパチ気味のド迫力、コテコテな感じでやらないと真価が現れないのかもしれない(あの「銭湯で録ったのか」と疑いたくなるようなメロディアの強烈残響があれば尚OK)。
 
一般的な現行版には今やかなりの録音があるのだが、個人的には「これぞ決定盤!」と呼びたくなる演奏が見当たらない。そんな中でも気に入っているのはアバドが若き日(1968年)に珍しくもニュー・フィルハーモニア管と録音したもの。正直言って私はこの指揮者の熱心な聴き手では無いが、まだ彼が「駆け出し」の頃の1960~1970年代前半の録音には結構面白いものが多いと思う。この「2番」、実に明快で吹っ切れた演奏で、終楽章の驀進ぶりやオケのノリの良さが特に印象的。永らく入手困難だったが、2007年にタワーレコードの企画BOXで復活。アツモン&ウィーン響の「3番」やアーロノヴィチ&ロンドン響の「マンフレッド交響曲」といったマニア感涙の音源をも含んだ全集で、如何にもタワーさんらしい好企画だったが、残念ながら現在既に廃盤のようだ。
 
ちなみにこの「タワー全集」では2番は「小ロシア」というタイトルになっているし、国内で流通している品物を見ると、まだ「小ロシア」が多数派のようだ。やはり一度定着した愛称はそう簡単には変わらないのかも・・・。
ウクライナがEU側につくか、ロシア側につくか、今年2014年は大きな転機の年になるかも知れず、私は非常に注目している。
 
本年も吉祥寺クラシック館と「猫丸しりいず」を引き続きよろしくお願いします!
 
★猫丸しりいず第190回
 
◎オルフ:歌劇「賢い女」
 
 シュヴァルツコップ(S) フリック(B)他
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
(海外EMI 6876382)
 
ぱみゅぱみゅレボリューション/きゃりーぱみゅぱみゅ
(ワーナーミュージックジャパン WPCL11079)
 
大きな声では言えないが(いや、言っても良いのだが)、きゃりーぱみゅぱみゅが結構好きである。
 
とは言っても、正直なところ「アイドル」としての彼女には全然関心が無いし、彼女のステージを見たいとも思わない。私の好きなのは、専ら彼女の歌う「ウタ」である。
この上なくシンプルなつくり、一度聴いただけで覚えてしまうようなメロディ、コトバを「部品」や「記号」の如く自由自在に操った面白さ。民族音楽にも通じるような、単純で原始的だけどインパクト強烈なサウンドは中々侮れない。この特色はプロデューサーの中田ヤスタカの「戦略」でもあろうが、きゃりーの歌が世界各国で大ヒットしたのは、この「原始的なまでの分かりやすさとノリの良さ」のおかげだろう。「つけまつける」や「みんなのうた」は
「快作」の一言。さあ、そこのお父さん、「ハヤリモノ」と馬鹿にしないで、きゃりーの歌、一丁いかがですか? 案外ハマってしまうかもしれませんよ。
 
そう言えば、クラシック音楽界にもきゃりーの歌に酷似した特色を持つ大家が居るでは無いか。そう、その人はカール・オルフ(1895~1982)。
 
「カルミナ・ブラーナ」だけが突出して有名になってしまったため、他の優れた作品が全く無視されている・・という不憫なヒトだが、その「カルミナ」だって、クラシック・ファン以外にまで知られる程に人口に膾炙した有名作になったのはせいぜい21世紀に入ってからの事だが・・・。
 
彼の知られざる名作の代表格が、「カルミナ」の大ヒットの後の1943年に初演された作品「賢い女」。楽曲のノリは「カルミナ」と全く同じ世界なので、「カルミナ」が好きな方ならスンナリと楽しめるだろう。同じフレーズを何度も反復させる手法が多く用いられている事もあり、歌手にとっては確かなリズム感と息継ぎのテクニックが要求される、中々の難物と思われる。
ドイツの民話に題材を得て、オルフ自身が書いた台本を超簡略化してまとめると、こんな感じ。
 
『昔、あるところに一人の農夫がおったんだと。その農夫には一人の大層賢い娘がおって、その賢さが王様に気に入られ、妃に迎えられる事になった。ところがある時、あまりの賢さが災いしてか、些細な事から王様を激怒させてしまい、娘は哀れ追放される事になってしまった。でも王様もさすがに不憫に思ったか、最後に一番大切なものを箱に入れて持ち出して良い、と娘に言ったんだと。すると娘は王様の食事に眠り薬を混ぜて、王様を眠らせ、箱に入れて外に連れ出してしまったんだそうな。目が覚めた王様は、何で俺がこんなところにいるんだ!とビックリ仰天。すると娘はニッコリ笑ってこう言ったとさ。「あ~ら、王様は最後に一番大切なものを箱に入れて持って行って良い、とおっしゃったじゃありませんか」。この言葉にすっかり参ってしまった王様は、娘を再び妃に迎え入れ、2人は前にも増して仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし。』(注:市原悦子か久米明のナレーションでお願いします)
 
イヤ~、凄いぞ!「賢い女」!!
こんな気の利いたセリフを女性から言われてグッと来ない男がいるだろうか。王様!幸せ者め!
若干「一休さんトンチ話 ドイツ版」みたいなテイストもある後味良いこの名作の代表盤が、ウォルター・レッグのプロデュースでサヴァリッシュ若き日の1956年に録音された大名盤。ステレオ移行の遅かったEMIには珍しく、50年代半ばの収録にもかかわらずステレオ録音である。覇気に満ちたサヴァリッシュの指揮はモチロンの事、主役の「賢い女」を演ずるシュワルツコップをはじめ、脇役にフリック、プライ、ナイトリンガーといった名歌手を揃えたキャストの充実ぶりが素晴らしい。月を盗んで自分たちの村に持ち帰ってしまった4人の若者たちのその後・・・という荒唐無稽な筋書きの、「賢い女」と並ぶオルフの愉快な隠れ名作オペラ「月」がカップリングされている事も実に嬉しい。N響でのサヴァリッシュの名演に幾度も生で接した私としては、この巨匠がN響のステージで「賢い女」や「月」をとり上げてくれていたら・・・という、ちょっと残念な気持ちも残る。
 
何とも早いもので、私が吉祥寺に着任して1年以上が経ち、この「猫丸」も2013年最後の回となった。今年もお世話になりました。そして来たる2014年も当吉祥寺クラシック館と「猫丸しりいず」を引き続きよろしくお願い申し上げます!
 
★猫丸しりいず第189回
 
◎メノッティ:ヴァイオリン協奏曲
 
トッシー・スピヴァコフスキー(Vn)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団
(国内RCA BVCC38467  ※限定盤)
 
◎Like A Virgin/マドンナ
(国内 ワーナーミュージック WPCR75120)

 
大きな声では言えないが(いや、言っても良いのだが)、実はマドンナが結構好きである。
 
彼女が大スターにのし上がった頃、私は大学生であったが、当時は彼女の歌をほとんどマトモに聴いていなかった。その挑発的なステージが物議を醸していた事もあり、ただの「流行りモノ」「色モノ」という偏見を持っていたからである。しかし、中年おぢさんになってから改めて彼女の歌を聴いて「オッと、コリャ中々凄いぞ」と感動してしまった。
 
「マテリアル・ガール」「ライク・ア・ヴァージン」「フーズ・ザット・ガール」等は中でも大名曲と思うが、とにかくそのパンチの効きカラッと乾いた爽快なサウンドは実に心地良い。そして、マドンナの歌は確かに挑発的でありながら、どことなく人懐っこい感じが漂い、何だかナポリタン・ソングでも聴いているかのような明るい昂揚感が湧いてくるのだ。
 
マドンナは本名をマドンナ・ルイーズ・チッコーネと言い、エンジニアだった彼女の父はイタリア系アメリカ人1世。彼女には「歌の国」イタリアの血が流れている訳であるのだが、マドンナのサウンドには「日常会話も歌になってしまう国」イタリアの雰囲気がそこはかと無く漂っているように私は思う。
 
「移民の国」アメリカには、実に様々な国をルーツとする才能が集結している。そんな中でマドンナ同様イタリア系の大物作曲家と言えるのがジャンカルロ・メノッティ(1911~2007)。イタリア北部ロンバルディア州の生まれで、若い頃渡米しフィラデルフィアのカーティス音楽院に学び、その後今でもクリスマスものオペラの定番となっているらしい「アマールと夜の訪問者」を筆頭に「アメリア舞踏会に行く」「電話」「領事」等々のヒット作を多く遺した人だが、それなりの知名度があるにも関わらず、彼の作品は日本ではお世辞にもポピュラーとは言えない。
 
そんな彼の名作の一つが、名匠エフレム・ジンバリストの委嘱によって1952年に書かれた「ヴァイオリン協奏曲」。アヴァンギャルドな要素が全く無い、極めて穏健で聴きやすい作品で、せめてバーバーの協奏曲位には演奏されて欲しいと思う隠れ名曲である。第1楽章が始まった途端、その親しみやすさ、と言うか「人懐っこさ」に強く惹きつけられる。そう、それはマドンナの曲の「そんなに畏まってないでさあ、アタシの歌を一緒に楽しんでよ!」という感触と共通した人懐こさ、心地良さなのだ。かと思うと第3楽章には太鼓とタンブリンの刻むリズムを伴う、異国情緒の伴った不思議な魅力を醸し出す部分もあり、この作曲家らしい器用なサービス精神にも「ヤルな、メノッティの旦那」と唸らされる。
 
数年前ミュンシュの音源がまとまって限定発売された時、長期間「幻」であったこの曲の名盤が復活したのには狂喜乱舞であった。この盤の「主役」はマルティヌーとピストンの「交響曲第6番」と言う、共に1955年のボストン響創立75周年記念の委嘱作で、チェコの演奏家とは全くノリの違うマルティヌーの猛演がお目当てで入手したのだが、「オマケ」?にこのメノッティが収録されているのに気付いた時はブッ飛んでしまった。
 
初演からまだ日の浅い1954年の録音であるこの音源、今や忘れられつつある名奏者、スピヴァコフスキー(1907~1998)の超貴重な録音の一つでもある。わずか19歳の若さでフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルのコンサートマスターを務めた凄腕の持ち主。その後渡米し、クリーヴランド管のコンマスに就任したりジュリアード音楽院で教鞭をとったり・・と活躍したが録音は多くなく、代表盤の一つで名匠タウノ・ハンニカイネンと共演したシベリウスの協奏曲(エヴェレスト盤)も永らく入手困難で、中古市場で高値を呼んでいる程だ。曲の素晴らしさを最大限に引き出しているこの演奏も実にお見事。この名匠もこのまま「忘れ去られコース」を歩んでしまうのか・・・。