猫丸しりいずのカテゴリー記事一覧

★猫丸しりいず第218回
◎ロンビ:コペンハーゲン蒸気鉄道ギャロップ
 レブエルタス:鉄道敷設 ルーセンベリ:鉄道のフーガ 他
 
イジー・スターレク指揮 カイザースラウテルン南西ドイツ放送管弦楽団
(独HANSSLER 93187     ※アルバム名「RAILROAD RHYTHMS」)
 
◎「電クラ」
 
杉ちゃん&鉄平(杉浦哲郎&岡田鉄平)
(国内 Uea JKCA1040)
私と同じく「クラシック好きにして鉄道好き」という手に負えない(笑)御仁は決して少なくないらしい。


秋山和慶氏を筆頭に、プロのクラシック演奏家兼鉄ヲタという人々は少なくないし、そういう流派の
「元祖」と言えるドヴォルザークという超大物も存在する。
しかし、そんな「恵まれた」状況下でも「クラシック音楽と鉄道」という「禁断のテーマ」に正面から立ち向かった
品物はこれまで無かった。そして・・・遂に出てしまったのが、今回の1枚「RAILROAD RHYTHMS」。


このアルバムの凄いところは、「鉄道モノ」の大定番のオネゲル、ヴィラロボス、シュトラウス、ロンビ等の
作品は勿論の事、「よくぞこんな珍曲まで・・」とマニア筋を唸らせる作品までを発掘、収録している点。
企画担当の「本気度」の高さを感じさせる。中でもレブエルタス、ルーセンベリというマニア狂喜の顔ぶれに
よる作品(単に珍しいだけでなく、いかにもこの2人のカラーが出ているのが良い)は実に貴重。


チェコの指揮者スターレクとSWRのオケによる演奏はかなり独特で、賛否は分かれるだろう。
推進力には乏しいので、ポピュラーな作品を元気良い演奏で聴きたい・・・という方にはおススメ出来ない。
ただ、丁寧な演奏ぶりは珍曲には大いに効果を発揮しているし、私は結構面白く聴けた。
印象的なのが「パシフィック231」。当猫丸の最初期でもネタにした通り、この曲には実に様々なスタイルの
演奏が存在するが、このスターレク盤はこれまでに聴いた事の無い独特な味わいがある。


定規で線を引いていくような実直な演奏で、オケも生真面目そのもの。普通の演奏が、ちょっとカメラを
引いて、機関車の突っ走る全体像を捉えているように思えるのに対し、この演奏は「全体」を一切映さず、
「回転する動輪」とか「車輪をつなぐ連結棒の激しい動き」とか「計器類」とかの、走行中の機関車の
「パーツのドアップ」ばかりが連続する映像・・・といった趣きなのである。ある意味では「違いのわかる鉄ヲタ
向き」とも言える珍演奏だが、恐らく鉄道&悪ノリ好きが企画したと思えるこの1枚をしめくくるのにふさわしい
と思える演奏である。


そして・・・・・。クラシック音楽と鉄ヲタという「いけない」組み合わせを極めた名アルバムが
杉ちゃん&鉄平の「電クラ」。最初にお断りしておくが、この盤、私のような「乗りものマニア&クラシック
音楽好き」というどうしようもない(爆)同志以外には決しておススメしない逸品である。かなり「重症」の
鉄ヲタでなければ「3VFエチュード」は「何が面白いのか」以前に「彼らが何をやっているのか」さえ、
理解不能であろう。また「メトロ・イメライ~大阪・御堂筋編」や「同~福岡・空港編」に至っては、
「重症鉄ヲタ」の中でも私のような「実際に乗車する」事を主眼とした「乗り鉄派」以外には大阪や福岡
在住の方以外ホトンドウケない・・と思われる位のディープな内容である。


我ら1960年代生まれの乗り物ヲタクには幼少時の「憧れの的」であった名古屋鉄道の7000系「パノラマカー」
のジャケットも誠に格調高く(笑)、鉄ヲタの琴線に触れる事この上無い。そして、そのディープすぎる内容を
聴き進むに及んで、ますます感銘を受ける事必定の名アルバムだ。その後第3弾まで出てしまったところを
見ると、それなりの反響はあったのであろう。


なぜこのバカバカしいとも思えるアルバムに感銘を受けるのか、と言えば、何と言っても杉ちゃん&鉄平の
両氏の驚異的に卓越した技量とセンスによる。この手の「確信犯的お笑いアルバム」は、演奏するメンバーが
恐らくはオーソドックスな曲目もハイレヴェルにこなせるであろう名手でないと、聴き手を満足させる事は出来ない。
やはり「お笑いは一日にして成らず」。
★猫丸しりいず第217回
◎ブリテン:戦争レクイエム


ヘルベルト・ケーゲル指揮 ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
                    ライプツィヒ放送合唱団 他
(国内ドイツ・シャルプラッテン TKCC15165 ※2枚組/廃盤)
日本の8月は「戦争」と切り離せない。


来年で第2次大戦の終結から70年を迎える。私が最近、8月を迎える度に
思うのは、「今の日本の子供たちや若者にとって、戦争はどの位リアルに
感じられる事柄なのだろうか?」という事。


既に随分前に当「猫丸」でも触れたが、「70年前の戦争」というのは、1960年代
生まれの私の世代に置き換えれば日清・日露戦争レベルの「昔」の話である。
1960年代生まれというと、親は大戦末期に子供時代をおくり、祖父母は実際に
戦場に赴いた(そしてそこで命を落とした)人も多い・・・という年代であるから、
「自らの戦争体験」は持たないにせよ、私はまだかなりリアルに「戦争」というものを
感じられた世代ではないかと私は思う。


最も身近な存在である親や祖父母の語る「戦争の話」は、実体験に基づくもの
だから「迫力」や「リアリティ」がまさに圧倒的だった。「戦争は愚か。絶対に
繰り返してはならない」という彼らの言葉には、本当に実体験の裏付けを感ずる
「重さ」があった。


しかし、「本物の戦争」を知る世代も今や若くとも70代後半。あと10年経ったら、
一体誰が「戦争のむごさ」を実感を持って伝えていくのだろうか。危機感を抱かざるを
得ない。その時こそ、「真の戦争を知る世代」を親に持った我々1960年代生まれの
人間が「最後の砦」となって「戦争の理不尽さ」を伝えていく役割を果たさなければ
ならないのだろう。


20世紀の2度の世界大戦は、戦争が前線の兵士達のみならず、無辜の市民たちの
生命を容赦無く奪う「大量殺戮」の場に「進化」してしまった事実を示す結果となった。
「戦争」を題材にした音楽は、昔は「牧歌的」と言いたい位のどかであったのだが、
第2次大戦を扱った音楽作品の中には「勝った負けた」だけでは済まない戦争の暴虐を
正面からとりあげた問題作が色々とある。その代表は何と言っても「戦争レクイエム」
だろう。1962年初演という、今日日常的に演奏されるクラシック音楽作品の中では
先日テーマにした「ショスタコーヴィッチの15番」や同じ作曲家の「交響曲第13番・14番」
に並ぶ「若い」作品である。


この作品には第1次大戦で命を落とした英国の詩人オーエンの実に印象的な詩が
用いられているが、中でも私に強い印象を与えたのが次の歌詞。


「家畜さながらに死んでゆく兵士達にどんな弔いの鐘がふさわしいのか?」
「俺はお前が殺した敵なのさ。友よ。」
残念ながら第2次大戦終結から70年間、未だ地球上に戦火のやむ日は無く、今でも
連日シリア、イラク、ガザ等々で罪なき市民の命が信じられない程の「軽さ」で
奪われている。「反戦」という強いメッセージを込めたこの名作が盛んに演奏されている
現状は、この曲のメッセージがまだ「必要」とされている事の裏返しだろうが、この作品
が「過去の愚かな戦争の回顧」という位置付けで演奏される日は、残念ながら今後も
無さそうな気がする。


この作品には作曲者自身の指揮による記念碑的な名盤もあるが、初出時クラシック音楽界
に大きな衝撃を与えたのが今回ご紹介のケーゲル盤。この指揮者がピストル自殺という悲劇的な
最期を遂げる直前の録音・・という「いわくつき」のもので、そのインパクトの大きさから
「ケーゲル=爆演指揮者」みたいな今日の偏ったイメージの発端ともなってしまった
音源である。「爆演」「猟奇的」な要素は彼の演奏スタイルに確かに存在はするけれど、
その一面のみをことさら針小棒大に誇張するのはどうかと思う。この「戦争レクイエム」
の演奏は「激烈にして真摯」。彼の演奏は例えばノーノとかウェーベルンのように
驚くほどに激烈なものもあるが、そんな怪演でも底には常に彼の「真摯さ」が溢れている。
ケーゲルにはまさに打ってつけと言える「戦争レクイエム」。この名盤が現状廃盤なのは
本当に惜しい。
★猫丸しりいず第216回
◎マーラー:交響曲第1番
パウル・クレツキ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(国内EMI TOCE16093 ※限定盤)
「齢をとる事って悪くない」
最近、ようやくこう言える境地に至った気がする。


まあ、平均寿命が80歳以上(80年以上生きて「平均」ですよ!)という昨今、私なんぞがこんな事を言えば、
人生の大先輩方から「洟垂れ小僧のくせにわかったような口をきくのは十年早い!」と叱責されそうだが・・。
ただ、若い頃の自分にとって「齢をとる」という事はひたすら「劣化」であり、経年につれて」自分から「若さ」が失われて
いく・・というのは一種の「恐怖」であった。


しかし、どう考えても「中高年」というカテゴリーに属する齢となった今は、若い頃とはすっかり心境が変わった気がする。
確かに加齢に起因する肉体的な衰えはどうする事も出来ないが、様々な人生経験の蓄積という財産は、若い頃には
決して得られなかったモノ。それは音楽の聴き方(「聴こえ方」か?)にも少なからぬ影響を及ぼす。
その影響の一つは、作曲家が若い頃に書いた作品が何とも「青臭く」感じられるようになってしまった事。
ただ、それは作品に魅力を感じなくなった、という事ではない。「若さ」が生んだストレートな魅力を再認識させられた
という事だろうか。
例えば、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」とかグリーグの「ピアノ協奏曲」のように、作曲家が20歳代の若い頃に
作曲した作品を聴くと、「お~お~ そんなに力んじゃって・・・。アンタ たちも若かったんだね・・・」と、何だか
微笑ましい気分にすらなってしまう。自分が若い頃にはこういう感想をこれらの曲に持つ事は決して無かったのだが・・。


マーラーの「交響曲第1番」は今や自分にとって、そうした「青臭名曲」の代表格。
この曲が今日の姿になるまでの紆余曲折に関しては、今更この場で繰り返す事は避けるが、その後「交響曲」という
分野でまさにエポックメイキングな存在となる作品群を自分が生み出す事になる・・・とはまだ(多分)知らない
「若造マーラー」が「あれもこれもやってみたい!」という風情で、この上なく力みかえって作った(と想像される)、
「若気の至り名曲№1」である。


私がクラシック聴き始めの中学・高校生だった1970~80年代は、マーラーやブルックナーの交響曲がようやく今日の
ように「普通のレパートリー」として定着した時代だった。とは言え、まだ「6番」とか「7番」とかを普通に聴く・・という
段階までは至っておらず、まずは無難に「1番」や「4番」から・・だったような気がする。私が初めて接したマーラーの
曲もご多分に漏れず「第1番」であり、当時中学生だった私はストレートに「何てカッコイイ曲だろう」と感動したものだった。
つられて「2番」とか「6番」とかに手を出した時、「1番」とのあまりの世界の違いに「この人一体どうしちゃったの?」
という戸惑いを覚えた事も懐かしい。そして今改めて思うのが、彼が今の私と大差無い齢で「大地の歌」やら「第9番」
のような曲を生んだという事実への一種の「畏怖」の念である。50歳という若さで逝ったマーラーにとって、これらの曲を
書いた頃はもう「晩年」だったわけだが、それにしても・・・・。


最近久々に聴き直して、「今の自分にピッタリだ」と思えた名盤が名匠クレツキとウィーン・フィルによる1961年の録音。
ウィーン・フィルが初めてステレオで録音したマーラーの交響曲との事。
「廉価盤の巨匠」クレツキへの賛辞は既に大分前に当「猫丸」で述べた通りだが(詳しくはコチラで・・・・・
 http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/816/、この録音もレコード時代は東芝の廉価盤「セラフィム」で
お馴染みだった。若い頃には非常に素っ気なく思えたこの演奏、この齢になって聴き直すと、クレツキらしい明快で
虚飾の無い指揮とオーケストラの暖かい音色が上手く溶け合った、「胃もたれしない名演奏」だった事に改めて
気付かされる。ただ、終楽章にカットがあるのは今の耳には古臭く感じられるのも事実。作曲家でもあったクレツキには
このくどいコーダはまさに「若気の至り」的に思われてガマン出来なかったのだろうと想像されるが・・・。
ともあれ、「美味しいものは食べたいが、もうギトギト脂っぽいのは苦手」という貴殿には是非お勧めしたい名演奏!
★猫丸しりいず第215回

◎ドビュッシー:二つのアラベスク、前奏曲集第2巻~花火

リャン・ソンファ(梁成花/P)

(及川音楽事務所 YZBL1034)


ドビュッシーにはアジアが似合う。

日本の農村でも、インドネシアの熱帯雨林でも良いのだが、アジアの風景の背景に
ドビュッシーの音楽(特にピアノ曲)は実に良くフィットする。これが、例えば
ベートーヴェンやブルックナーだったりすると、そうは行かない。

実際、ドビュッシーはジャワのガムランに大きな影響を受け、東洋的な旋法を用いたり
「海」のスコアの表紙に葛飾北斎の浮世絵を使ったり・・等々、アジアの音楽や文化には
影響を受けていた事が伺えるし、何より「ガッチリ構築的」という造りとはまるで
対照的とも思える独特の時間の流れからは、アジア、東洋に通ずるものが感じられる。


印象的な名曲「花火」。この曲でのドビュッシーの独特な花火の描き方は誠に印象的だ。
花火にちなむ名曲と言えば、何と言ってもヘンデルの「王宮の花火」だけど、この曲が
まさに「玉屋~ 鍵屋~」系のド派手打ち上げ花火を想起させるのに対し、ドビュッシー
のそれはちょっと違う。曲の冒頭の「チョロチョロ」という感じの音型は、まるで線香花火の
火花が飛び散る情景のようだし、最後のクライマックスもせいぜい仕掛け花火の
「ナイアガラの滝」位のイメージで、夜空にバンバン上がる打ち上げ花火・・という感じでは
無い。この曲、おしまいに「ラ・マルセイエーズ」の断片がチラリと顔を出す事から、
「パリ祭」(7月14日)のド派手花火をネタにしたものと言われるのだが、私はこの曲から
そういう壮大な花火のイメージを想起出来ない。
ドビュッシーが日本の線香花火を知っていたとは思えないのだが、彼の「花火」の
描き方には、アジア的・・というか「盆栽」や「箱庭」に通じる「日本的」な雰囲気が
感じられてならない。
そんな「ドビュッシーとアジアの繋がり」を感じさせる好アルバムが、かなり前に
当「猫丸」でアルバム「アリラン」をご紹介した(詳しくはコチラで・・・・
http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/710/)ピアニスト、リャン・ソンファさんが
昨年8月に第2弾として発表したCD「ドビュッシーとコリアン・メロディー」。


リャンさんが第2弾を出すに当たって、コリアン・メロディを主役に据えつつも、ご自分が
愛奏されているスタンダードなクラシック音楽作品も入れてみたい・・と思われた結果が
このユニークな組み合わせのアルバムになった、と想像するが、コリアン・メロディの
「前座」みたいなポジションに置かれているドビュッシーが実に良かった。


最初に入っている「二つのアラベスク」は、全てのピアノ曲の中で私が最も好きな曲の
一つだが、この演奏がとりわけ素晴らしい。この曲には透明でどこかヒンヤリとした感触の
演奏が多いが、この演奏は実にまろやかで「湿度」が高く、まさに「アジアの風景」に
ピッタリフィットの独特な名演である。クールな演奏が好みの方には「ドビュッシーと
しては丸すぎないか?」という印象を与えるかもしれないが・・。アジア的なまったり感と
鮮烈なコントラストを両立させた「花火」もなかなか良い。
続く「本編」のコリアン・メロディも無論良かったが、第1弾の印象があまりに鮮烈だったためか
、今回の第2弾はそこまでのインパクトは無かったというのが正直な感想。ただ、「境界線」
に当たるコリアン・メロディの第1曲「ひばりのうた」が、意識的にか偶然かドビュッシーを
思わせるアレンジになっていて、ドビュッシーからコリアンの世界へのうまい「橋渡し役」と
なっている。日本でも良く知られる「リムジン河」(日本では「イムジン河」だが)など、親しみ
の持てる曲ばかりだが、中でも印象的なのが「うさぎのダンス」。日本にも野口雨情&
中山晋平の黄金コンビによる同名の名曲があるが、なんとコリアン版「うさぎのダンス」は
3拍子!! 毎日「アリラン」や「トラジ」を聴いて育つとうさぎも3拍子で踊るようになるのか・・
と、妙なポイントに感心した私であった。
高温多湿な猛暑が続くアジアの夏。それをむしろ逆手にとって、アジアならではの雰囲気に
浸りたい・・。そんな貴方におススメの1枚で御座います。
★猫丸しりいず第214回

◎ショスタコーヴィッチ:交響曲第15番
クルト・ザンデルリンク指揮 クリーヴランド管弦楽団
(国内ERATO WPCS5539 ※廃盤)
今年上半期の音楽界の最大の話題の一つは、あのザ・ローリング・ストーンズの
来日公演だろう。

私が中学生の頃には既に「巨匠」と言うか「別格」的な風格を漂わせていた彼らが
それから40年近く経った今でも現役で、はるばるこの極東の国までやって来て公演
するというのはそれだけで驚異だ。何しろミック・ジャガーは70歳。ドラマーの
チャーリー・ワッツに至っては御年73歳!!。来日公演のチラシの写真を見たら、
ワッツは何だか「井の頭公園を孫と散歩してる爺さん」みたいな容貌になってい て、
正直「オイ!大丈夫か」と思った程である。

しかし。公演終了後の論評を幾つか読んだが、どれも絶賛であった。そして、評者の
感想に共通していたのが、彼らが「かつての偉大なグループの想い出公演」などでは
無く、「いまだ音楽シーンの最先端を走っているバリバリ現役の爺さんたち」である
事実をステージで証明して見せた事への賛辞・・というか「驚嘆」であった。
私もこの点には驚嘆せざるを得ない。何たって彼らの代表曲「サティスファクション」
はもう50年近い前の1965年生まれ。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」は1968年、
「ホンキー・トンク・ウィメン」は1969年生まれ。

若い頃私は、いわゆる「クラシック」音楽はその名の通り「古典」であり、ストーン ズの
ようなロックはそれより遥かに後輩のコンテンポラリーな存在・・というように決めつけて
いた。しかし、今日クラシックの名曲として盛んに演奏されている作品の中には、実は
上記のストーンズの名曲や、ビートルズの幾多の名曲たちよりも「後輩」の作品が現れる
という「逆転現象」が現れている。その典型例はショスタコーヴィッチの最後の交響曲
「15番」。

この名作が初演されたのは1972年1月。この曲、実はディープ・パープルの「ハイウェイ・
スター」や「スモーク・オン・ザ・ウォーター」とほぼ同期生。中々笑える組み合わせだ。
とにかく「政治と不可分」という印象の強いショスタコーヴィッチの交響曲群の中で
例外的に「政治の臭い」が感じられないのが「1番」と この「15番」。ニールセンの
「交響曲第6番」と並び立つ、独特の人を喰ったような謎に満ちた名作である。

大きな編成を用いながら、オケが炸裂する場面はほとんど無く、様々な作曲家の引用や
打楽器がチャカポコ鳴りながら遠くに消えていくようなエンディング等々、「何じゃ
コリャ」と叫びたくなるようなポイントに事欠かない。この曲の初演時、私は既に
小学2年だった訳だが、まだクラシック音楽よりは「仮面ライダー」
の方に多大な関心があった当時の私には、この大作曲家の「新作」が発表されるという、
この上なくコーフンをそそられる事柄の当時の反応をナマで感ずる機会が持てなかったのは、
今となっては誠に遺憾(笑)と言わざるを得ない。

私が初めてクラシック音 楽の本格的な聴き手となった1970年代後半は、まだ彼の作品の中で
「普通」にとり上げられるのは、ほぼ「交響曲第5番」のみという状態であり、その当時は
今日のように彼の「交響曲全集」が何種類も登場したり、「第15番」のような後期の作品が
「普通」のコンサート・レパートリーになる・・・などという時代が来るとは想像も
出来なかった。しかし今やこの「15番」は「スタンダードな名作」という称号を与えても
良い程に「出世」してしまったのだが、そうなるまでにはそれなりの時間の経過が必要で
あった。それを思うと尚更、時系列では「15番」よりも先輩のヒット曲を数々残しながら、
今だ最先端として活躍し続けるストーンズの面々の凄さには敬服するしかない。

さて、この 「15番」の名盤として真っ先に頭に浮かぶのは、ご紹介の1991年録音のザンデルリンク盤。
クールで精緻で「顔色一つ変えません」という趣のクリーヴランド管の響きはまさに「15番」に
打ってつけ。それにしても、ザンデルリンクとクリーヴランドという珍しい顔合わせによる
レコーディングがなぜ実現したのか。その経緯は謎だ。
ヨッフム&ボストン響の「未完成」「ジュピター」(DG)と双璧の「謎の顔合わせ名盤」
として君臨するこの盤も、現在は廃盤で入手困難な模様。実に残念だ。

これから25年、いや、50年経っても聴き次がれていきそうな1960~70年のロックの名曲たち。
その頃はもうこれらの曲も一種の「クラシック」音楽という位置づけになっているのか、
興味津々ではあるが 、その結果を我が目で見届けられるか否かは微妙・・・
★猫丸しりいず第213回
ターナー:テトゥアンのカスバ
ジャパン・ホルン・クインテット
(洗足学園 SZCD-0018 ※アルバム名「エル・カミーノ・レアル」)
昭和歌謡の名曲「カスバの女」。

1955年に発表されたが、諸々の事情で埋没してしまい、その後1967年に突如掘り起こされ大ヒット。
その後、藤圭子、青江美奈、矢代亜紀等々の大物歌手たちが次々とカヴァーし、私が子供の頃はかなり親しまれた曲
だったように記憶している。

小学生の頃この歌を聴いて私が「すげー」と思ったのは、『ここは地の果てアルジェリヤ』『明日はチュニスかモロッコか』
という歌詞。演歌なのにアラビアが舞台って一体・・・。ちなみに、戦前のフランス映画「望郷」(ジャン・ギャバン主演)が
下敷きになった作品なのだそうだ(それ故か、主人公の「カスバの女」は歌詞を読むと日本人では無く、パリから流れてきた
フランス女・・と思われる。フランス女性が主人公の演歌ってヤバイ・・)。
そしてその時私の頭にこびりついた一つの疑問は「カスバって一体何だろう?」。

「カスバ」とはもともと「城塞」という意味で、北アフリカの国々に多い、外敵の侵犯に備えるために築かれた砦や、砦に
囲まれた都市の事なのだそうだ。しかし、「カスバの女」の舞台になったアルジェのカスバ(世界遺産!)のように、
植民地時代に欧州人の作った「新市街」に対する、地元市民が居住する「旧市街」を指すケースもあるようだ。
そして私が久々に接した「カスバ」をテーマにした音楽。それが「テトゥアンのカスバ」。

テトゥアンはモロッコ北部にある街で、旧市街はこれまた世界遺産。スペインとアラブの入り混じった独特の雰囲気を
持ったところなのだとか。そんなエキゾティックな街を描いた作品の生みの親は、アメリカ・テキサス出身の作曲家、
ケリー・ターナー(1960~)。してその作品は、「シェエラザード」や「アラディン」のような絢爛なオーケストラ曲かと思いきや、
これが意外にもホルン五重奏曲である。ホルンと言えば、私が即座に連想するのは「アルプス」や「宇宙」。それには、
私のホルンという楽器に関する子供の頃の「原体験」が結びついている。私がこの楽器を初めて認識したのは、「アルプスの
少女ハイジ」や「ウルトラセブン」の主題曲であったので・・。齢がバレるが。だから「ホルンで描くモロッコ」というのは、
意外と言うか、聴く前にはまるでイメージが湧かなかった。

しかし、聴いてみるとこの曲、遊び心に溢れためっぽう楽しい傑作である。何より、ホルンという単一の楽器の合奏で
ここまで多彩な表情が描けるのか!と眼から鱗が落ちる思いであった。いかにも欧米人が捉えたらしい「ベタ」な「アラブ
風味」に溢れているのが微笑ましい、奇想天外な怪作にして名曲。作曲者のターナーは自らもホルン奏者だそうで、
この楽器の底力を熟知しているのだろう。9分弱の小品であるが、「ホルンってココまで出来るのか!」と終始感心してしまう
作品である。ただ、演奏する側にとってはかなりの難曲と想像される。その点、この盤の演奏はパーフェクトだ。

ジャパン・ホルン・クインテットは、長年読売日本響で活躍された山岸博さん(惜しくも今年の2月で読響から引退されたそうだが)
によって結成され、N響、東響、都響といった日本を代表するオケで活躍されている強者奏者5人によるアンサンブル。
この「カスバ」の収録されたアルバムは彼らの4作目のアルバムだが、シュティーグラーの「聖フーベルト・ミサ」のように、
まさに「ハイジの世界」を思わせる作品から、吹奏楽ファンにはおなじみのアルフレッド・リードの「エル・カミーノ・レアル」
(まさかと思われるだろうが、これをホルン5人のみでやっている!)等々、実に多彩な内容。彼らの技量の凄さを堪能出来る。
普段オーケストラの一員としてのホルンにのみ親しまれている方が聴いても、この楽器の表現力の幅広さを再認識
されるであろうアルバムだ。(※尚、このアルバムのライナーノーツは色々ご縁があって不肖猫丸が担当させて頂いている。
この点は一応おことわりしておきます)

ところで、モロッコ、アルジェリア等の北アフリカの国々はパリから飛行機で3~4時間。東京からだと上海や台北に行く位の
感覚である。だからフランス人と推測される「カスバの女」さんがアルジェを「地の果て」と捉えていたかは正直微妙だ。
この地域を「地の果て」と捉えるのは、やっぱり極東の国々の発想だろう。異国を舞台にしながらも、やはりコテコテに
「極東演歌」でした「カスバの女」・・・・・
★猫丸しりいず第212回
 
◎ブルッフ:スコットランド幻想曲
マキシム・フェドトフ(Vn)
ドミトリ・ヤブロンスキー指揮 ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
(NAXOS 8557395)
 
 昔、こんな夢を見た。
 

自宅の居間でダラダラしていたら、白昼突如悪魔乱入。
「こんにちは、猫丸君。君はヴァイオリンを弾けるのかね?」(注:声の出演/熊倉一雄)
 
「悪魔さん、何を出し抜けに・・。習った事も無いのに弾けませんよ。」
「フッフッフ・・・ そしたら猫丸君、君に1曲だけヴァイオリンの名曲を弾ける能力を授けようか・・。何の曲が良いかね?」
 
そこで私は間髪入れず、こう回答。「スコットランド幻想曲!」
「ほほう! 猫丸君。迷いが無くて潔いな。よかろう! じゃあ、その曲を弾けるようにして進ぜよう・・」
「ところで悪魔さん。その能力を手に入れるには、貴方に魂を捧げるとか、手数料として100億円(消費税込み/当時3%)
上納するとか、何かとんでも無い代償が必要なのではないんですか?」
 
「猫丸君。そんな大層なモノは要求せんよ。私の大好物のタラコを1年分年貢で納めてくれれば充分じゃよ。フフフ。」
「悪魔さん・・・ そんな所帯じみたもので良いんですか ホントに? でもどんなに好物でもタラコばっかり喰ってたら、
コレステロールたまりますよ」 と悪魔に説教を開始したところで目が覚めた。

 
この上なくバカバカしい展開であったが、自分が悪魔からの問いに「スコットランド幻想曲」と即答した事は、妙に
記憶に残った。なぜこの曲なのか。後から考えるとブラームスの協奏曲あたりも捨てがたいし、悪魔さんへのサービスと
しては「悪魔のトリル」とかでも良かったような気もするのだが・・・。そこで早速、この名作を聴いてみると改めて納得した。
この「スコットランド幻想曲」はヴァイオリンの魅力を30分に凝縮したような素晴らしい逸品である。
 
サラサーテのために作曲され、1881年に初演された作品。ただし、実際の初演はヨーゼフ・ヨアヒムによって行なわれた。
サラサーテとブルッフは「第1番」「第2番」の協奏曲では良好な関係を保っていたものの、この「スコットランド幻想曲」に
関しては、作曲の過程でいろいろ意見や感情の行き違いが生じ、結果ヨアヒムの出番となったらしい。まあ「人間関係」って
中々ムズカシイ。スコットランド民謡を素材にし、そこにブルッフらしい優しくメロディアスな味わいが加わったこの曲には、
日本人のDNAに訴える「ド演歌」っぽい要素が多分にある。中でもスコットランドの愛の歌を素材とした第3楽章は、何度
聴いても平常心でいられない位私は好きである。この第3楽章と、続く活気に溢れた終楽章とのコントラストも絶妙。
連綿たる「歌」と、歯切れよく活気に満ちた「歌」の見事な共存。自分にヴァイオリンを弾く能力があったなら、やはり真っ先に
弾きたい名作なのは間違いない。

 
余談ながら、この曲で印象的なのはシンバル。実は私は実演で聴くまで、この曲にシンバルが使われている事を知らなかった。
序奏に登場するこのシンバル。実に効果的、印象的なのだが、録音で聴いてもサッパリピンと来ないのは仕方無いところか。
こればかりは実演でないとこのシンバルの効果は体感出来ないのかもしれない。
「スコットランド幻想曲」の名盤と言えば、やはり何と言ってもこの名作の普及に多大な貢献をし、「クール・ビューティ」という
形容がピッタリのハイフェッツ盤を筆頭に、万人向けの秀演パールマン(EMI)、小気味よいチョーリャン・リン(SONY)等々、
枚挙にいとまが無いが、今回ご紹介のフェドトフは大穴名盤。万人向けとは決して言えないが、この曲をここまで恥ずかしげも
無く「歌いまくった」演奏も中々類例が無い。いつもながらロシア人、恐るべし!!!
それにしても、あの時の悪魔さん。もう一度夢に乱入して頂けませんか? もうコレステロールがどうしたとか説教しませんから、
「スコットランド幻想曲」弾かせて下さいよ・・・。ただ、浮世の世界は増税でヒーヒー言ってますので、出来れば手数料は安めで
お願いします・・・
★猫丸しりいず第211回

◎エネスコ:ルーマニア狂詩曲第2番、組曲第1番~第3番 他

クリスティアン・マンデアル指揮 ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団
(ARTE NOVA 74321-49145-2 4枚組 ※交響曲・管弦楽曲集)



ジョルジュ・エネスコ(1881~1955)は不思議な人だ。


ヴァイオリンの巨匠にして、作曲家・・というのは別に珍しくない。
ただ、パガニーニ、サラサーテ、ヴィエニャフスキといったその系列の人々の作品が、自らの楽器ヴァイオリンのためのものに
集中しているのに対し、エネスコは3曲のソナタ以外にヴァイオリンが主役の曲があまり思い浮かばない。
ヴァイオリンの名手でありながら、「ヴァイオリン協奏曲」が見当たらない(若い頃に着 手はしたようだが、習作で断片しか遺っていない
ようだ)というのは、私の眼にはかなり奇異に映る。


彼の楽曲の中で突出して有名な「ルーマニア狂詩曲第1番」は20歳頃の初期の作品だが、こういう起承転結のハッキリした
「わかりやすい」曲は彼の作品の中ではむしろ少数派で、彼の管弦楽曲の多くは「晦渋」とまでは言わなくとも、どこかつかみ所の無い
不思議なテイストの作品が多いのである。マーラーやR.シュトラウスのような大げさな装いをまといながら本音が良くわからないという
感じの・・・・。「ルーマニア狂詩曲」のような作品を期待して、例えば彼の3曲の交響曲に相対すると、特に2番、3番あたりの曲には
相当戸惑う聴き手が多いだろう。私も、エネスコの管弦楽作品の独特な味わいを楽しめるようになるまでには時間がかかった。


そんな「取っ付きづらさ」もあってか、「ルーマニア狂詩曲第1番」以外の曲がまるで親しまれていないのは、まあ仕方が無いかなとも
思うのだが、一つ納得の行かないのはもう一曲の「ルーマニア狂詩曲」、そう、「第2番」が全く知られていない事だ。
「第1番」に劣らないどころか、「狂詩曲」と名が付く全ての楽曲の中でも私の一番好きなこの名作がなぜ全く無視されているのか・・。


この曲は弦楽による序奏に続いて、郷愁に満ちた名旋律が3回繰り返し登場する。最初は弦楽で、次に木管が加わり・・。そして、この
2回目までは比較的淡々とした表情だったこの旋律が、3回目に「もうこれ以上気持ちを抑えられません!」と言わん ばかりに、ありったけの
感情を込めてフルオーケストラで演奏される。この瞬間がもう振るいつきたくなる位に素晴らしい。そして、東欧的な響きの中に明滅する
独特のトルコ的・・と言うか東方的なエキゾティックさが実に魅力的な作品なのだ。確かに「第1番」のような鮮やかなメリハリには
欠けるが、捨て置けない名作なのは間違いない。
この「第2番」、「第1番」に比べると録音の数もグッと少ないが、色々聴いた中ではやはり地元のルーマニアの演奏家たちの録音が
素晴らしい。上述の「3回の繰り返し」の部分での、1回目、2回目の抑え方、そして3回目の大輪の花が開くような吹っ切れた歌わせぶり!
ここの「呼吸」が誠に絶妙で、さすが地元の味わいと思って しまう。そこでARTE NOVAのマンデアル盤を御紹介。
ARTE NOVAにはこのエネスコの他ブラームスも録音しており、また最近ルーマニア・エレクトから突如ブルックナーの交響曲全集が
出て、一部マニアを歓ばせたルーマニアの名指揮者マンデアル(1946~)による、エネスコの主要管弦楽曲を集めたBOX。
お手頃価格、充実した内容の嬉しい1組。全く知られていない3つの「組曲」も中々面白い作品で、おススメである。
あまりに多芸多才で、かえって「正体不明」な感じになっているエネスコという音楽家。一筋縄ではいかない「謎」を秘めた彼の作品の
世界を貴方も覗いてみては?
★猫丸しりいず第210回
◎ファリャ:歌劇「はかなき人生」
ヘスス・ロペス=コボス指揮 シンシナティ交響楽団 他
(米TELARC CD80317)
以前この「猫丸」で、「オペラ界ダメ男大賞」のダントツ1位はピンカートン、2位はドン・ホセ・・という「判定」を下したが(詳しくはコチラ http://blog-kichijyouji-classic.diskunion.net/Entry/1918/)、ウカツであった。この2人の間に割って入る「伏兵」的なダメ男がいたのを、私はウッカリ忘れていた。


その男とは、ファリャの傑作「はかなき人生」の登場人物、パコである。


このオペラ、途中に登場する「スペイン舞曲」はファリャの代表作としてやたらと有名なのに、肝心な全曲が全然と言って良い程知られていないのが誠に残念。ヒロインのジプシー娘、サルーの悲恋物語である。舞台はグラナダだが、そのダメ男パコはサルーの恋人。サルーはパコの事を真剣に愛しているが、何とパコは彼女を裏切り、お金持ちの令嬢カルメラと結婚してしまう。婚礼の祝宴に乗り込んだサルーは、恋人の裏切りという現実を目の当たりにし、悲嘆と絶望のあまり死んでしまう・・・というストーリー。1時間前後という、コンパクトな作品である。


自分の事を真剣に愛する女性を裏切り、しかも相手に全く告げないまま他の女性と結婚し・・という行動はピンカートンと瓜二つ。結婚相手はジプシー娘で無く、同じ上流階級の女性で・・という打算も見え「パコさん、アンタ本当にカルメラの事を愛しているのかい?」と訊いてみたくもなる。「蝶々夫人」におけるケイト夫人同様、サルーだけでは無くカルメラにも心の傷を負わせてしまっているパコ。やっぱりピンカートン級のヒドイ奴だ。よって、彼には「オペラ界ダメ男第2位」の称号を与え、ドン・ホセ氏は3位に陥落という事にいたしたい。


それにしても、この名作が何故これほどまでに知られていないのか。その原因の一つは淡々としたクールな音楽運びだろう。婚礼の祝宴の情景から、最後のサルーの死に至る後半部分は多少オペラっぽい盛り上がりを見せるが、多くの聴き手がオペラに期待するであろう、朗々としたアリアとか起伏の激しい展開とかは見られない(同じスペインやジプシー女性が素材の「カルメン」とは、その意味でまさに対照的な作品だ)。
しかし、その点こそがこの曲の魅力なのだ。ファリャという作曲家は、「三角帽子」でクールで済んだ響きとスペインらしい熱狂を両立させるという離れ業を演じた人だが、この「はかなき人生」も、過度な熱狂抜きで、それでも間違いなく「スペイン」を感じさせる、極めてファリャらしい凝縮度の凄い作品と思う(面白いのは、スペイン以外の国の作曲家が「スペイン」を描くと、過剰なまでに「情熱の国」っぽい雰囲気を強調するのに比べ、スペインの作曲家が自国を素材にした作品はそこまで手放しの熱狂という感じでは無く、どこかちょっと「冷えた」部分がある点だ)。


さて、この曲の名盤としては、ロス=アンへレスが主役を歌ったEMI盤がまさに定番とは言えるが、今回は大穴名盤ロペス=コボス盤を。思い切り地味な存在であるが、演奏、録音共に優れている上、何とあの「カスタネットの女王」ルセロ・テナが参加しているのも嬉しいポイント。ロペス=コボス&シンシナティ響の名コンビは、テラークにブルックナー、マーラーといった重厚長大系楽曲から、レスピーギ、デュカス、ヴィラ=ロボス等の多くの録音をしており、どれも中々高水準の演奏にも関わらず、日本では全くと言って良い程に無視されているのが残念。1940年生まれのロペス=コボスは30歳代から国際的な活躍をしていて、他にも珍しくロサンゼルス・フィルを振ってDECCAに録れた「三角帽子」など、優れた仕事を少なからず残しているのだが、「酒場のマスター」みたいなあの風貌で「損」をしているのかな?・・・。
ともあれ、ありそうで無い「スペイン人によるスペインオペラ」。ファリャはモチロン、スペイン音楽のお好きな貴方、是非ご一聴を・・。
★猫丸しりいず第209回
◎ガーシュウィン:パリのアメリカ人/朝鮮民謡「アリラン」他
ロリン・マゼール指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
(EUROARTS 2056948 ※DVD 「THE PYONGYANG CONCERT」)
近くて遠い国。北朝鮮。


もしも東京から平壌までの直行便があったとしたら、恐らく3時間もあれば行けてしまうであろう地理的には極めて近い国でありながら、気軽に出かける事など想像も出来ない所になってしまっている。その理由は改めて言うまでもあるまい。
そんな「謎の国」北朝鮮を、2008年2月にニューヨーク・フィルが訪れて平壌でコンサートを行なった事は、クラシック音楽界のみならず、一般的なニュースとしても大きくとり上げられた。何しろ、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」と名指しした国に、そのアメリカを代表する楽団が乗り込んだのであるから・・・。その模様を収めたのが、今回ご紹介のDVDである(ブルーレイ版も発売されている)。


コンサートを収めた本編に加え、ボーナストラックとしてドキュメンタリーが収録されているが、このドキュメンタリーが最高に面白い。何より、これだけ鮮明な映像で平壌の街の風景が見られるとは思っていなかった。国際空港らしい華やぎが皆無の冷え冷えとした平壌空港(高麗航空のゴツいソ連製イリューシンIL76がチラッと映ったりするのも飛行機ヲタクにはこたえられない)や、市内を走るボロボロのトロリーバス、交通整理をする凛々しい女性警官等々・・・。そして非常に印象的なのが、登場する平壌の人々の「表情の無さ」。喜怒哀楽をハッキリ表す朝鮮半島の人々とは信じられない程である。彼らが「自分の意見や感想を表明する」事に慣れていないのが明らかで(その理由もまた明らかだが)、仮面をかぶったようなその無表情には一種の恐怖感すら感じる程だ。


このドキュメンタリーには、マゼールやニューヨーク・フィルの面々が、平壌のオーケストラや音楽学校の学生たちにリハーサルしたり、レッスンしたり・・という場面も出てくるが、平壌のクラシック演奏家たちのポテンシャルは意外に(と言っては失礼だが)高い。ただ、北朝鮮の現状では、彼らがグローバルな舞台で活躍するチャンスはまず無いと思われる。非常に惜しい。


コンサートの曲目のメインは「パリのアメリカ人」と「新世界交響曲」という、まさにアメリカを象徴する曲目なのだが、この「パリのアメリカ人」が誠に凄演。この名曲をここまで、「どうだ!! これが自由の国アメリカだ!!」と叫ぶように演奏した例は、他にこのオケを若き日のティルソン・トーマスが振った演奏(SONY)位しか思い浮かばない。閉ざされた謎の国北朝鮮にアメリカが放った強烈なメッセージ・・。そんな感じである。


そしてこの映像で本当に印象的、感動的なのは最後の場面。アンコールの「アリラン」が終わり、オーケストラのメンバーが舞台を去り始めた時の、聴衆たちの反応である。皆が立ち上がっての大喝采(「熱狂的」と言っても良い程だ)。そして、あの「恐怖感」すら感じさせた無表情の人々とは別人か、と思う程の自然な笑顔。楽員たちと聴衆が共に笑顔でお互いに手を振る情景と、最後に平壌の空港で帰国する楽員たちとの別れを惜しんで涙を流す通訳たちの姿を見て、私は「ああ、彼らもやっぱり普通の人間なのだ」という感動と、「安心感」を味わった。


もちろん、この映像に登場する北朝鮮の人々は、ごく一握りの特権階級に属する人々だろうし、このコンサート自体を一種の政治的ショーである・・と批判する事は容易であろう。しかし、終演後の聴衆の大喝采を受けて、舞台の袖でマゼールとコンサートマスターのディクテロウが交わす会話の中に出てくる「音楽は共通の言葉。その事を忘れないようにしなければ。」というフレーズは、そういう批判を吹き飛ばす「真実」を語っているように私には思われる。ただ、北朝鮮という国にその後も一向に変化の兆しが無いのは誠に残念なのではあるが・・。


「音楽の力は凄い!」という感動と、「音楽の力だけでは変えられないものもある」という一種の無力感が交錯するこの記録。とにかく色々な事を考えさせられるおススメの逸品であります。
★猫丸しりいず第208回
◎プロコフィエフ:バレエ音楽「シンデレラ」
アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団
(米EMI 67706 2枚組)
 「不遇の傑作」という「称号」を贈りたいクラシック音楽作品がいくつかある。
曲の出来栄えも演奏効果も、知名度もその作曲家の他の有名作品に全く劣るところが無いのに、なぜか地味な存在に甘んじている名作。当「猫丸」で、かなり前にそんな「不遇の傑作」の代表選手としてベルリオーズの「イタリアのハロルド」をとりあげた事があったが(詳しくはコチラ http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/798/)、プロコフィエフの傑作「シンデレラ」も「不遇度」では決して「ハロルド」に劣らない。

大ヒット作「ロメオとジュリエット」の7年後に初演された、いわば「妹分」と言える作品。しかし「姉さん」の圧倒的な大人気の陰で、この妹は全く目立たない。全曲、組曲共々音盤溢れかえる「ロメオとジュリエット」に比べ、「シンデレラ」は音源の数も非常に少ない。姉貴に引けをとらない美女であるのに、この冷遇ぶりはあんまりではなかろうか。
この2曲にどうしてここまでの人気の落差が出来てしまったのか。全くの私見ではあるが、その原因は「演奏会用のオーケストラ曲としてのインパクトの差」にあるように思う。「ロメオとジュリエット」は古今東西のオハナシの中でも屈指の起伏の激しい、急展開を伴うストーリーで、やれ「運命の出会い」だ
「決闘」だ「悲劇的な死」だ・・と見せ所のポイントにも事欠かない。プロコフィエフの曲もバレエ音楽として優れているのは勿論だが、それ以上に、あたかも長大な交響詩のように、「踊り」の要素が無くとも聴き応え充分の「管弦楽曲」としてとして成立してしまっており、それがこの曲の安定した人気・名声に結びついているように思われるのだ。
それに対して「シンデレラ」は、誰もが知っている超有名なオハナシではあるが、物語としては「ロメオとジュリエット」に比べると起伏は遥かになだらかである。「12時で魔法が解けてしまうのに慌てたシンデレラが靴を落としていってしまう」「落とした靴を頼りに王子がシンデレラを見つけ出す」という有名な場面が一番の山場とは言えるが、それ以外は比較的淡々とストーリーが進行していく。ちなみに「シンデレラ」系の物語は世界各地に様々なヴァージョンがあるが、日本では「シンデレラ」のストーリーの代名詞のようになっている「ガラスの靴」や「カボチャの馬車」は、あのシャルル・ペローが付け加えた「素材」なのだそうである。
有名ではあるが平坦なストーリーという要素が「災い」?したか、超有名な割にこの「シンデレラ」を題材とした音楽作品は意外に少なく、プロコフィエフの他にはロッシーニやマスネのオペラが知られている程度だ。プロコフィエフの曲は「ロメオ」と異なり、「ストーリーをフォローする」要素は薄く、「踊り」の要素を前面に押し出した作品となっており、結果としてバレエの現場を離れて演奏会で「管弦楽曲」としてとり上げられる機会はほとんど無く、それが「傑作なのに影が薄い」という残念な結果に繋がっているように私には感じられる。


しかし、プロコフィエフ以外の何人にも成し得ないと思われる精妙なオーケストラの扱いから生み出される澄んだ響きや、独特の躍動感は、姉貴格の「ロメオ」よりむしろ「シンデレラ」の方に活かされているように私には思えてならない。ただ、残念ながらこの作品の長所を十全に生かした録音が中々見当たらない事も、この名作がずっと地味な存在に甘んじている一因では無いか。この曲のクール・ビューティな装いを最も完璧に再現できるのはクリーヴランド管弦楽団・・・という感じが個人的には強く、実際DECCAから録音も出ているのだが、誠に残念ながらアシュケナージの指揮が一本調子で不完全燃焼な結果に終わっているのは残念。


色々聴いた中で一番良かったのが今回ご紹介の1983年録音のプレヴィン盤。オケの精度がややユルイのは否めないが、実に聴かせ上手。そして
プレヴィン&ロンドン響の録音の多くを手掛けたEMIのエンジニア、クリストファー・パーカーのカラフルな音づくりが実に素晴らしい。チャイコフスキーの「3大バレエ」やメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」、ガーシュウィンの「ポーギーとべス組曲」等、この名コンビを代表する魅力的な録音のほとんどに彼が携わっていたように記憶しているが、名演奏を更に磨き上げて「名盤」として残すために、作り手のプロデューサーやエンジニアの力が如何に大きく寄与するかを痛感させる逸品でもある。


余談ではあるが、ワーナーにEMIが吸収されてしまった今、クラシック音楽界の一つの「文化遺産」と言っても過言では無いEMIの膨大な録音が今後どうなってしまうのかは非常に心配である。EMIは欧州の色々な国で、まさにその国の持ち味を生かした幾多の名録音を遺しており、それらの中には既にレコード→CDの移行期に一気に存在感の薄くなってしまった知る人ぞ知る名音源も少なからず存在するのだが、レーベル自体の消滅に伴い、その手の音源が入手出来る望みはますます薄くなってしまうのだろうか? そうだとしたら誠に残念ではあるが、そうなると「埋もれさせてはいけない名録音」の事を世の中に発信し続ける事は私たち中古ショップの大きな使命と感じてしまう。不肖猫丸もガンバリます!
★猫丸しりいず第207回
◎ホヴァネス:そして神は偉大なる鯨を創りたもうた
ジェラルド・シュウォーツ指揮 シアトル交響楽団
(米DELOS DE3157)
世の中に「動物モノ」と呼べるクラシック音楽作品は、古くはマラン・マレから新しくは「ピーターと狼」に至るまで、まさに枚挙にいとまが無い状況である。そんな中でも飛び切りユニークな「鯨とオーケストラの共演」という作品を今回はご紹介したい。
その「そして神は偉大なる鯨を創りたもうた」は、アルメニア系アメリカ人の作曲家アラン・ホヴァネス(1911~2000)の作品。この人、以前「猫丸」でネタにした事のある作曲家コンヴァース(詳しくはコチラでhttp://blog-kichijyouji-classic.diskunion.net/Entry/1835/)が師匠との事。その風貌は仙人か、はたまた怪しい宗教の教祖様か・・という感じで、何だか浮世離れしているのだが、彼の作品にもまた一種独特の「浮世離れ感」が漂っている。


ホヴァネスは多作家で、交響曲を何と67曲!も遺している。彼の作品に対しての私の印象は「明晰なのに茫洋」。何だか矛盾した言い回しではあるが、
アルメニア系という出自から連想されるハチャトゥリャンのような「熱血・土俗」テイストはまるでなく、クールと言って良い程の澄んだ響きでありながら、どこか捉えどころの無い、まるでお寺の梵鐘がボ~ンと鳴るのを聴いているような不思議な時間の流れを感じさせる作品が多い。


彼は東洋の音楽に大きな関心を持ち、インドやタイ、韓国等々を研究のために訪れ、日本でも雅楽や浄瑠璃を学んだ事もあるのだそうだ。彼の作品に漂う西洋の時間感覚とちょっと違った茫洋とした感じは、確かにどこか東洋的である。


「そして神は偉大なる鯨を創りたもうた」は1970年の作品。テープに録音されたザトウクジラの鳴き声とオーケストラが共演する12分強の曲。まさにホヴァネス的な独特の時間感覚に満ち溢れた名作である。この曲を聴くまで私は「鯨の声」を知らなかったが、「へえ、こんな甲高い声で鳴くのか」とちょっと意外な感じであった。ちなみにこのシュウォーツ盤の鯨の声は、ライナーノーツによれば、ハワイのカウアイ島の沖で録音されたものとの事。


ところで、この曲には忘れられない思い出がある。もう10年近く前だろうか、このCDを自宅で聴いていたら、この「鯨の鳴き声」の箇所になった時に、何やら背後からドタドタと猫の足音が・・・。当時我が家には4匹の猫がいて、まさに「猫屋敷」状態だったのだが、その4匹が突然集結し、鯨の声を発するスピーカーに向かって一斉に毛を逆立ててシャーシャーと威嚇を始めたのである。彼らが聴きなれない鯨の声を聞きつけて、「外敵の襲撃」と思っているのは明らかだった。今にもスピーカーに飛びかかるのではないかと思う程の剣幕に私は度肝を抜かれ、慌ててCDをストップさせた。「外敵」の声が止んだら、猫軍団は「アレ?今のは一体何だったのだ?」という怪訝な様子で周りをキョロキョロ見回し、毛繕いなどしながら立ち去っていったのだが(猫が「目的」を果たせず、とりあえずその場を取り繕うのに何故か「毛繕い」をする習性は面白い)、おかげで私は自宅でウッカリこの曲を聴く事が出来なくなってしまった(笑)。


その時痛感したのは、普段はボ~ッとしているようでも猫は基本的にライオンや虎と同じく「肉食猛獣」であるという事。彼らをナメてはいけない。実際、動物の声の入ったCDを聴いていたら、興奮した猫にスピーカーを壊されてしまった・・という実話も聴いた事がある。猫好きの皆さん、くれぐれもご注意の程を・・(真剣)。


今やその猫たちも全員天国へ旅立ってしまい、すっかり静かになってしまった我が家で私は何の遠慮も無くこの「そして神は偉大なる鯨を創りたもうた」を聴く事が出来るようになったのだが、何だか寂しい気持ちなのは否めない。あの「猫vs鯨 世紀の決戦」の修羅場の情景は、これからもこの曲を聴くたびに私の脳裏に甦る事だろう。
★猫丸しりいず第206回
◎ラロ:チェロ協奏曲
 ピエール・フルニエ(Vc)
ジャン・マルティノン指揮 コンセール・ラムルー管弦楽団
(独DG 457761-2)
◎ショスタコーヴィッチ:チェロ協奏曲第1番
ピエール・フルニエ(Vc)
ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮 スイス・ロマンド管弦楽団
(CASCAVELLE VEL3144)

前回に続き、「幻の演奏会」のオハナシ。

私は20~30歳代にかけて、NHK響の定期演奏会に足しげく通っていた。その中で、チケットも入手し最大限の期待を持って待っていたにも関わらず、実現される事の無かった、私にとって「痛恨」の演奏会が2つある。その一つ、「幻のギュンター・ヴァントの第九」については、既に大分前に当「猫丸」でとりあげている(詳しくはコチラで http://blog-shinjuku-classic.diskunion.net/Entry/934/)。そして、もう一つ。それが「幻のフルニエのラロ」。

逝って20年近くが経った今でも、絶大な人気を保つ「チェロのプリンス」フルニエ。親日家として知られ、1954年の初来日以降何度も来日して名演を聴かせたこの巨匠が、何と1986年3月のN響定期に登場する・・と聞いた時、当時大学生だった私は思わずコーフンした。ナマのフルニエが聴ける・・というだけでも凄いのに、曲目が何とラロの協奏曲!
ドヴォルザークと並ぶ「チェロ協奏曲の横綱」でありながら、中々実演に接する事のないこの名作を、フルニエというこれ以上「適材適所」とは思えない大巨匠の演奏で聴ける・・・。私はワクワクしながらその日を待っていた。

その1986年の正月明けのある日。何気なく新聞を読んでいた私の眼は、一つの訃報に釘付けになった。「チェロの巨匠。フルニエ氏死去」。

いきなり頭をガン!と殴られたようなショックで、思わず持っていた新聞を取り落しそうになった。齢80になろうとする老巨匠なのだから、いつそういう日が来てもおかしくはなかったのだが、この巨匠のナマのステージに接する機会を失ってしまった事に対する喪失感は、しばらく私の心の中から消える事は無かった。

結局、幻に終わった「フルニエのラロ」の生体験。しかし、その「渇望」感はDGに彼が遺した1960年の録音でかなり癒す事が出来る。1960年代はフルニエにとってまさに「絶頂期」と言える時期。録音後50年以上経った今でも絶大な支持を維持しているバッハの「無伴奏」やセルと共演したドヴォルザークの協奏曲等、彼の代表的な録音の多くがこの時期の産物。ご紹介のDG盤は2枚のレコードからの編集盤で、他にサンサーンスの「1番」や、「コル・ニドライ」「シェロモ」と多彩且つ対照的な曲目を収め、この稀代のチェリストの凄さを堪能出来る逸品となっている。
フルニエの演奏は「プリンス」「貴公子」といった賛辞にふさわしく、実に凛々しく完璧で、惚れ惚れする程に端正なのだが、それでいて「薄味」な感じや物足りなさを全く感じさせないのが凄い。このDG盤、お目当てのラロの素晴らしさはもちろんの事、普段はギトギト感が漂い、聴いた後「天ぷら大量喰い」の如き胸焼け感の残る事の多い「シェロモ」を、これだけ凛とした風情で弾いて、尚聴き手を圧倒させてしまう至芸には「参りました」と敬服するのみ。

そんなフルニエの至芸を別の角度から堪能出来るのが、今回の「もう1枚」のCASCAVELLE盤。この盤は彼がスイス・ロマンド管に客演した際のライヴ音源を集めたもの(シューマン&マルティヌー&ショスタコーヴィッチ「1番」という何ともそそられる曲目)だが、入手したそもそもの動機は「フルニエの独奏だから」というポイントより、むしろフリッチャイ、サヴァリッシュ、ホーレンシュタインというマニア狂喜の共演指揮者陣にあった。中でも最高に「そそられた」のが1962年12月のライヴである、ホーレンシュタインのショスタコーヴィッチ。しかし、聴き始めた途端、私の耳は本来の「主役」であるフルニエのチェロに惹きつけられる事となった。「快刀乱麻を断つ」という形容がまさにふさわしい冴え渡った妙技と、キリリとした気品を両立させた名演奏には「恐れ入りました」という他無く、聴き始めてすぐに、私は「共演指揮者」の事などどうでも良くなって、ただフルニエの名演にひたすら聴き惚れる結果となってしまった(ホーレンシュタイン大先生、誠に申し訳御座いません/笑)。

結果として「幻」となってしまった1986年の来日公演が実現していたとしても、果たして私が彼の1960年代を中心とする幾多の名演と同等の感銘を得られたかどうかは、今となっては定かでは無い。それでも尚、ひょっとしたら自分の音楽人生にとって忘れられないポイントになったかもしれない「その日」を迎えられなかった残念な思いは、これからも私の心の中にずっと「こびりついて」いる事だろう。
★猫丸しりいず第205回
◎R・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」
サー・エードリアン・ボールト指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ジャクリーヌ・デュ・プレ(Vc)他
(国内EMI TOCE8805 ※廃盤)
リヒャルト・シュトラウスの名作「ドン・キホーテ」。
私はこの曲を聴くと、どうしても思い出してしまう素晴らしい音楽家がいる。
それは山本直純さん(1932~2002)だ。

 
直純さんが亡くなって早くも10年以上が経過し、若い世代の方には「山本直純」と言ってもあまりピンと来ない方がひょっとしたら増えているのかもしれない。あのヒゲ、黒縁メガネ、ド派手衣裳、ガラガラ声というあまりにも「立ちすぎるキャラクター」でまさに八面六臂の活躍をした直純さん。小林亜星さん同様、そのあまりの多芸多才ぶりがかえって彼の音楽家としての凄さに対する評価を阻んでいるような気がしてならない。

 
私がクラシック聴き始めの中学生の時にさんざんお世話になった、あの名番組「オーケストラがやってきた」での、ユーモラスでわかりやすい司会ぶりにこの人の有能ぶりは明らかだったが、「男はつらいよ」やNHK大河ドラマのテーマ曲の中でも屈指の名作「風と雲と虹と」「武田信玄」を書いた作曲家としての才能もピカイチ。「この山本直純っていうヘンなおじさん、実はかなり凄い音楽家ではないか」と中学生の私は生意気にも彼を「高く評価」していた。ただ一つ引っかかっていたのが、「このオジサン、普通の?指揮者としての活動はしていないのか?」という点。そんな折も折、その直純さんがナントあのN響の定期公演に登場するというニュースにブッ飛んだのは、私が中学3年の1978年。

 
その年の9月の定期公演に直純さんが登場する事が告知された時には、エッ!と度肝を抜かれたが、さらに驚いたのはそのプログラム。
 
◎リスト:交響詩「レ・プレリュード」
◎ハイドン:交響曲第45番「告別」
◎R.シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」(チェロ/堤剛 ヴィオラ/菅沼準二)

恐らくは直純さんご自身がチョイスした曲目なのだろうが、彼の「日常活動」から想起される「ポピュラー名曲」ではなく、当時「クラシックビギナー」であった自分には結構敷居が高い・・とすら感じさせたラインナップに、直純さんの並々ならぬ「決意」が感じられるプログラムであった。「直純さんは、実は凄いミュージシャンだと信ずる人々の会 品川支部所属」を自認していた私としては、このコンサートに多大なる期待をイヤでも抱く事となったのだが・・。

 
しかし。

 
その演奏会は「幻」で終わってしまった。

 
私と同世代以上の方にはご記憶の方もいらっしゃるかもしれないが、直純さんはよりによってこの演奏会の直前の8月に交通違反スキャンダルを引き起こし、しばらく「謹慎」を余儀なくされ、N響への登場も中止となってしまったのである(実際の演奏会では、外山雄三さんが代打を務めた)。人生の一大転機となったかもしれない大チャンスを、「身から出た錆」でムザムザ棒に振ってしまったのは、ある意味では奔放な直純さんらしいとも思えるが、直純ファンの私には誠に痛恨事であった。日本を代表するソリスト2人を従えて、直純さんが振る「ドン・キホーテ」。やっぱり聴いてみたかった。実現していたら、直純さんの「音楽家」としての真の凄さを知らしめる絶好の機会になったかも知れないのだが・・。

 
その「ドン・キホーテ」。今回ご紹介の盤は、20年ほど前に発売された時「デュ・プレの未発表音源の発掘」として大きな話題を呼んだもの。実はデュ・プレにも「N響での幻のコンサート」があったのをご存じだろうか。
1973年4月に若き日のバレンボイムがN響に客演した時、定期公演でデュ・プレと共にドヴォルザークの協奏曲を演奏する事になっていたのだ。しかし、この時彼女の身体は既に病魔に蝕まれており、予定されていた公演は全てキャンセルとなり、そのまま演奏活動から引退する事になってしまった
(実際の演奏会は、バレンボイムがピアニストとしてブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」を弾き、そこだけ指揮者が森正さんに交代・・という超変則的な形に変更になった)。ちなみにご紹介の盤には、まさにその1973年の1月に演奏したラロのチェロ協奏曲(クリーヴランドでのライヴ)がカップリングされているが、これが彼女が聴衆の前でキチンと演奏が出来るほぼ最後の機会になってしまったのだそうだ。

音楽が生身の人間の営みである以上、「幻の演奏会」が生まれる事は不可避なのだろう。でも、だからこそ「実現された名演奏」は我々音楽好きの宝物なのだ。でも最後にもう一言、直純さん、惜しかったね・・・
★猫丸しりいず第204回
◎ヴァイル:小さな三文音楽/クレンペラー:メリー・ワルツ
ストラヴィンスキー:「プルチネルラ」組曲 他
 オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
(WARNER 4044012 ※4枚組「20世紀音楽&サウンド・バイオグラフィ」)
◎クレンペラー:交響曲第1番、第2番、葬送行進曲 他
 アラン・フランシス指揮 ラインラント・プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団
(独CPO 999987-2)
 
 運の良い男、オットー・クレンペラー。
1885年生まれの彼が、もし70歳で亡くなっていたとしたら、恐らく今日の彼のポジションは例えばロジンスキーのような「マニアからは根強い支持があるが、一般的には陰の薄くなった昔の名指揮者」どまりであっただろう。生涯に亘って病や怪我につきまとわれながら、最後にフィルハーモニア管という超一流の楽団を手兵としてEMIに大量のステレオ録音を遺せた事は、まさに「幸運」としか言いようが無い。フリッツ・レーマンやルドルフ・モラルトのように、クレンペラーよりずっと後輩でありながら、惜しくもモノラル録音期に早世してしまったばかりに今日全く忘れ去られてしまった名指揮者たちの存在を思うと、ますます彼の「幸運度」が際立つ。


彼の晩年のEMI録音の中心レパートリーが、古典派~ロマン派にかけてのドイツ・オーストリア系の重厚長大型の楽曲だったためか、今でもそうした曲目に人気と評価が集中しすぎている気がする。もちろん、それらが個性豊かな名演揃いなのは間違いないが、私が彼の録音の中で見逃してはならない名演と確信しているのは、20世紀音楽だ。彼は若い頃から同時代の音楽を盛んにとりあげており、晩年のEMI録音の中にも彼と同世代の作曲家たちの作品が幾つか含まれている。いわゆる「王道レパートリー」に比べ、どうしても影が薄くなりがちなそれらの音源を集大成した貴重なBOXが今回ご紹介の4枚組(このBOXには。英BBCで放送されたジョン・トランスキー執筆・構成・ナレーションによるクレンペラーの「サウンド・バイオグラフィー」も収録され、クレンペラー自身の肉声も聴ける貴重なドキュメンタリーとなっている)。


ストラヴィンスキー、ヴァイル、ヒンデミットといった、彼と同世代の作曲家の作品が収められているが、そのどれもが最高に面白い。ストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」「プルチネルラ組曲」は、最近の洗練された演奏と異なり、どこか武骨でギクシャクした感触だが、それが一種アルカイックな味わいを醸し出しており、特に「プルチネルラ」は作品の擬古的なスタイルとフィットして独特の名演となっている。そして!中でも、と言うかクレンペラーの遺した膨大な録音の中でトップクラスの名演!と思うのが「小さな三文音楽(「三文オペラ」組曲)」。


クレンペラーという男は、とてつもない奇人にしてエロ爺さんだったらしく、今日的基準から言えば信じられないレヴェルの逸話を多々遺している。そんな彼の「人生観」みたいなものがにじみ出ているのが、この「三文オペラ」組曲。1961年、彼が70歳代半ばになってからの録音だが、その飄々とした「達観」したような味わいが最高だ。「人生なんて思うようにはならないのさ。流れに身を任せながら、それでも一生懸命やるしか無いのさ」という巨匠の声が聞こえてくるようである。フィルハーモニア管の管楽器の名手たちの妙技も聴きものだ。


そして、この時代の巨匠たちの多くがそうであったように、クレンペラーも作曲家としての顔も持っており、このBOXの中にも3曲の自作が収められている。加えて、「珍曲担当名匠」と呼びたいフランシス指揮の盤もCPOから出ている。彼の作曲活動は若い頃と晩年に集中しているのだが、最も有名な「メリー・ワルツ」は古今東西のワルツの中でも最高傑作の一つと思える名作(タイトル通り「陽気な」そして享楽的なワルツではあるのだが、随所でクレンペラーの皮肉な笑いが感じられるのが実に良い)。他、「交響曲第1番」や「葬送行進曲」は、その独特の人を喰ったようなシニカルで頽廃的な雰囲気が最高である。これらの作品のいずれにも「三文オペラ」の演奏同様「変人巨匠」というクレンペラーの持ち味が最高度に発揮されており、誠に味わい深い。

 
クレンペラーが晩年にフィルハーモニア管を振ったベートーヴェン「第9」の映像(確か1964年の収録)を見た事があるが、終演後に聴衆の大喝采に応えて何度もステージに呼び出される彼の姿は中々感動的で、彼が如何に楽員、聴衆の双方から敬愛されていたかがヒシヒシと伝わって来た。ある時は奇行を繰り返す助兵衛おやじでありながら、またある時は尊敬を集める大巨匠。何というギャップであろうか。


もう今後は現われないであろう、こんな奥深い男。
それがクレンペラー。